分かりやすい説明=概念の再利用

※一部、極論・暴論あり
 筆者のモチベーションを保つためのものですので深く考えないで下さい。


どうしても説明が下手な人はいる。
あとで別の友人に聞いてみたら「こんな簡単なことだったのか……」
と思うようなことが、その説明下手な人からだと全然理解できない。

下手すると喧嘩になるかもしれない。
説明下手人間は“お前の理解力が足りない”と思っているし
説明を受ける人は“あいつの説明が悪い”と思って軽蔑しあう。

でもって説明下手人間が上司や先生ならばコレ最悪。
その説明を理解出来ないと不利な評価を受けることになり、その場しのぎのために理解したフリをしなくてはならなくなる。
でもって、後でメッキが剥がれて痛い目に合う。
結局悪い評価を付けられる。
そうやって組織がガタガタになっていく。

これを組織内のコミュニケーションがうまくいってなかったと、とっても抽象的な言葉で片付けるのが大流行している。これって結局、わかりにくい説明が組織内に横行していたからじゃないのか? 部下の行動を方向づける説明がうまく伝達されてなかったんじゃないのか?

もしあなたの友人がパソコンに詳しかったら、次の質問をしてみよう。それでだいたいその人が“わかりやすいタイプ”なのか“わかりにくいタイプ”なのかが診断できる。
(1)パソコンとは何ですか?
(2)環境変数って何?

例えばこれでもしも(1)の質問で、あなたがパソコンについて知識0にも関わらず、ハードウェア構成などから話し始めたら、その人はUS[“う”まく、“せ”つめいできない]である。暴論すれば、これでその人が空気を読める人なのかそうでないかがわかる。なぜならば、ハードウェアうんぬんの説明を相手は望んでいないのに、そうした説明をする、すなわち説明者が相手の頭の中の程度をスキャンできていない、すなわち相手の立場に立っていない、すなわち空気が読めていないということなのだ。

飲み会の席で周囲の人が引いてしまうようなことを平気で言う方がいる。その人は周囲の人が望んでいないことを喋って、周囲の人が嫌だなと思っているのを察することができず、つまり考えていることを理解しようとしない、相手の立場に立っていない、すなわち空気が読めていないのである。

 話がそれた。
 じゃあ、どうしたら分かってくれるのか?
 ずばり簡単な言葉でまとめると、
『わかりやすい説明とは相手が所有している概念を再利用し伝えること』だ。
・ゆっくりした口調で
・説明の順番を結論から
・専門用語を使わない
http://www.noma.or.jp/koumu/com_skill/page03.html
など、いろいろ細かなメソッドを説明する人もいるが端的に言うならコレしかない!
『わかりやすい説明とは相手が所有している概念を再利用し伝えること』
これができていれば早口でも構わず、説明の順番がめちゃくちゃでもOK! 相手に伝わるんだったら専門用語も駆使しよう!

具体的に説明しよう。
つまりあなたの所有している概念を再利用し説明した例を提示しよう。

(1)パソコンとは何ですか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa319870.html
 パソコンとは頭の良い赤ん坊です。パソコン単体では何もできませんが、あなたが仕事の仕方を教えることで、えらい速度で仕事を終わらせてくれます。ただ赤ん坊なので最初は手足の動かし方すらわかりません。そこで基本的な身体の動作を教えてもらう必要があります。その役割を担っているのがOSです。OSによって手足を動かすことができました。これでやっと文章を書けたり、絵を描いたりできます。基本動作ができた上で、文章や絵を書くことができるのですが、そういう固有の仕事はソフトウェアがパソコンに教えてくれるのです。だからあなたが使っているパソコンにはwindowsやらwordが入ってるのです。それをまとめてあなたがパソコンと呼んでいます。

(2)環境変数って何ですか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa327188.html
 環境変数とは、数人が同時にだったりバラバラにだったりで仕事をしても、うまく回るように参照するメモみたいなものです。引越しのバイトを考えるなら、次の引継ぎの人に「タンスの場所はここにあります」とか「棚の収納先は二階のキッチンです」のように伝えるメモです。これがなかった数人で仕事できませんよね。環境変数とは、そういう風にソフトやシステムが参照するメモなのです。

(3)デュアルコアCPUって3GHz+3GHzで6GHzになるんじゃねーの?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1986557.html
 これは仕事をする人間が二人いたからといって、能率が単純に2倍にならないのと同じです。たとえば学校から算数の宿題として1枚のプリントをもらったとしましょう。この1枚の宿題プリントを兄弟二人で片付けられるでしょうか? 隣に兄さんがいても狭くて邪魔なだけではないでしょうか? 逆に宿題が2枚のプリントだったとしましょう。そうしたら能率は単純に2倍になります。つまり、宿題の方が対応していれば3GHz+3GHzで6GHzになります。だから別々の作業を同時にするならデュアルコアCPUの方が速いです。1枚の仕事を6GHzで行うことはできないのです。
 
 
 以上!
 もちろん、細かな間違いはあるよ! でも質問者が望んでいるのはそういうことだろうか? 何もわからない質問者はざっくりとした概念が欲しいのだ。そしてその概念を作ってやるためには、質問者の持っている概念を再利用して再構築して提示するのがてっとり早いのではないか。 
 
 質問(1)では赤ん坊という既存の概念を、質問(2)では数人で仕事をする様子やメモという概念を、質問(3)では宿題のプリントという概念を再利用している。もし単語レベルから概念を構築しようとしたら、単語の概念がわからないから、出来上がった概念は意味として理解されない。というかそれって概念ではないわな。だから質問(1)では、パソコンはCPUはハードディスクといったもので構成されていて〜 OSが基本ソフトとして乗っていて〜 なんて説明してはいけない。
 
 このことを無意識的にわかっているから、誰かに説明を求めるとき「もうちょっと具体的に言ってくれない?」と人はお願いするのだ。これは翻訳すると「もうちょっと俺のもっている概念を使って説明してくれない」というお願いになる。具体的なもの=質問者が所有する概念なのだ。
 
 ということは上に挙げた質問(1)〜(3)の答え方は万人向けではないことがわかる。当然持っている概念が人それぞれ異なっているからだ。場合によっては質問(2)でもっと技術用語を使って説明してもよいだろう。
 
 が問題はそのさじ加減か……
 いくら『わかりやすい説明とは相手が所有している概念を再利用し伝えること』と言い張っても、相手がどんな概念を所有しているのかうまーくスキャンできて、それに絡める形である程度理屈が通るように説明をするのって落語家並みの構成力を必要としないだろうか? 別の頭の良さが必要かもしれない。





23:30 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

大学生・大学時代にすべきこと

 大学時代にすべきこと
 大学生のうちにすべきこと
 
 ネットで検索しても具体的な事はあまり書かれていなかったので、当ブログでしぶしぶ書くことにする。絶対にもっと素晴らしい内容を書ける人がいるので、そういう人にはたくさん具体的に書いてもらいたい。
 
 以下、優先順位の高い順から書いていく。
 
1.奨学金を借りる

 学部生には厳しいかもしれないが、奨学金を借りるか借りないかで
『使える時間』と『有効に使える時間』が全く違ってくる。後でも書くがつまらないバイトをするくらいだったら、奨学金という低利子のお金を200万でも300万でも借りれるだけ借りて、時間を有効に使おう。お金がないからといって、間違っても何のためにもならない高時給のバイトなどやってはいけない。時間の無駄だ。あなたの貴重な若い時間を、お金のためだけに費やしては本当にもったいない! 


1.(裏)奨学金が借りれない場合は?

 高時給で、あなたのためになるバイトをしよう。一人で黙々とやる作業よりも何人かでやる共同作業の方が良い。そして作業を通して何かスキルが身についたり、価値ある友情を育むものでありたい。本当に価値あるバイトは友人の紹介などで見つかる場合が多い。バイト募集雑誌にはめったにない。あそこに載っているのは、チェーン店が募集している単純労働のバイトしかない。
 

2.サークルに入る

 自分は自分が思っているよりもずっとずっと未熟な人間である。それを認識するのはネットの掲示板とかじゃなくて、たくさんの人間の中に居てこそなのだ。これを教えてくれるだけでもサークルに大勢の人間の中に飛び込む価値がある。大学にはクラスがない。学部は皆で共同作業をするところではないから友情を深めにくい。コミュニケーション力のない人ほどサークルに入るべきだろう。

 一つだけに入らず、数種類のサークルに最初は出入りしてみよう。自分の興味以外のことをしているところにも積極的に顔を出す。いろんな人間が居て本当に面白いと思う。だんだん選んでいけば良いのだ、写真でも音楽でも何でも。そういったものや人間に精通することで人生はさらに豊かになっていくと思う。単純労働のバイトなんかよりも、こういうところに時間とお金を使うべきだ。お金は社会人になってから回収できる。

 余談だが、学部の卒業式の時、帰り際、会場の前でサークル員に胴上げされた。すんごく嬉しかった。節目節目を彩ってくれるのは人間関係であるのだなと思った。自分は高校の時、部活をやめて自宅と学校を行き帰りする日々を送っていた。卒業式の日もただ行き帰りしただけだったのだ。あの日だけはさすがに虚しくなった。廊下では先輩の卒業を祝う後輩たちでいっぱいでにぎわっていた。どうして自分はあの場に居ないのだろう? 並ぶ見知らぬ後輩たちを避けながら、自分は靴棚のほうへ歩くのである。胴上げされた日の帰り、こういった記憶がよみがえって来た。  

続きはまた明日。
08:49 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

雑誌が売れないとかネットのせいだとか、情報食あたりとか

 近年、雑誌が売れないという雰囲気になっているらしい。某有名ブログでもそんな内容が取り扱われていて、そのでの意見は“ネット”におされているから、ということらしい。ネットにそれほど精通していない自分としては、そんなにネットってすごいの? と思ってしまうのだが、よくよく生活パターンを点検してみるとなるほど、と思うところもある。

 まず調べ物はネットからである。でもって大抵ネットで十分である。きっとどこかの本にも詳しく書いてあるんだろうけど、そういう本は目をさらのようにして探さないとまずない。調べ物をする場合の、時間的コストはネットがぶっちぎりの一番である(あらゆる調べ物を平均化した場合ね)。

 本を探すのネットで探す。ネットからあるから、探せてしまう。あれこれ無駄なものを買わなくてすむようになってしまった。無駄本を買わなくなった。

 まあ、こんな感じだがそれでも雑誌など紙媒体のメディアを買わなくなったわけではない。現に文庫など、ネットでうまく宣伝が効くものはうまく売れているのではないか? ネットがあることでベストセラーになった書だってあったはずだ。でも、雑誌はネットで宣伝しにくいものっていう部分で不利なのかもしれないけどね。

 とにかく、ネットでただの情報にあふれているから雑誌や本が売れなくなったというのは、単なるマーケティングの失敗なのではないか、という気がする。そりゃ、現実世界にネットという媒体が出てきたのだから市場の条件は変わるでしょう。だからといって簡単に取って代わられるような単純なものでもありますまい。

 だから旧来のメディアがとるべきの一つは、専門性への特化でしょう。そのため値段が高くなっても消費者はぜんぜんよいと思うよ。そうしないと広告費で運用されているネットのコモンディティな情報群に埋もれてしまう。紙媒体としてふさわしい姿というのは、持っていてうれしくなる所有する喜びの実現であり、繰り返し見られるための十分な内容であるべきだ。よくある言葉でいうならブランドの確立だ。雑誌が3,000円しても内容がよいなら売れる。

 こんなことを書いているには、最近ネットってめんどくさーと思い始めてきたからだ。だから雑誌など旧メディアには相当期待してるのだ。ネットは余計な広告は入るし、内容も適当なときがあるし、商業的にやっているのかそうでないのか区別はつかないし、ソフトの使い方を調べて個人のサイトに入ったりすると、どうも不親切だったり。つまり骨太な体系的なものがネットには置いていないのである(そうじゃないのももちろんあるよ)。これと同じことを雑誌がやっちまったら、金を払う分だけ当然敬遠されるっしょ。
 
 断言したい。
 この玉石が混じった情報の海はやがてそっぽを向かれる。より正確に表現するなら、現状の検索エンジンが提供する情報世界はやがて飽きられる。現状の私たちが構成する何ににも特化していない情報で満たされているweb世界はやがて飽きられる。一昔前なら面白かった個人の日記も今は誰もみない。ちょっと立派なことを書いてあるようなブログでも、誰も訪問しなくなる。もうトレンドは変わったのだ。一旦、汎用な人々の情報ですっかり満たされてしまったのだ。こうなると情報の色彩の区別はつかないし、ちょっとくらい違っていてもどうでもよくなる。
 
 もしかしたら“情報”そのものに人間は飽きるかもしれない。言語を基調とした情報に人間は食あたりを起こすかもしれない。そうなった時、再び浮上するのは体験知や五感で感じる“嬉しさ”なのかもしれない。パソコンが使えるよりも、郷土料理を作れてみんなに振舞えるようが、ずっとずっと人間として素敵なこととして認識される、というかそういうトレンドになりそうな気がする。
 
 ビジネス用途の情報はまたちょっと違うだろうけどね。
 なんか話がずれたな。
 
00:12 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

殺意を覚える「一口ちょうだい」

 今から心の小さいことを書きますぜ。
 題名を読んで賛同できない人、そういう覚悟でお読みください。

 
 「一口ちょうだい」


 これ、大っっっ嫌いです!!!!
 
 特に友人同士で昼食食べているときにやられると、本当に殺意を覚えますね。きっと自分の血統は貧しい農民だったのでしょう。食べ物を取られると、本能的に許せなくなってしまんです。特に了承していないのに、一口くらいいいじゃん、とか言って3個しかないから揚げを一つ丸ごととっていく奴。ホント、いい加減にしてくれ! どんだけ楽しみにしていたと思ってるんだ。
 
 そりゃ、こっちとしても多少は嫌な顔するかもしれないけど、しょうがないなみたいな態度ですよ、基本。なんでかって、食べモノくらいでケチな男だと思われるのが嫌だしね。でもそれを分かってか分からずか「一口ちょうだい」を常習的にやるやつ! こればっかりは犯罪級でしょう。「代わりにコレあげるよ」って言われても、その食べ物に全然興味ないのですよ。俺のから揚げ返してくれ><
 
 「代わりにコレ」の態度も見せない奴。これは本当に本当に極刑モノですな。食べ物のことに限らず、ギブ&テイクの義理を忘れ、もらうポジションばかりに要る人は少しずつ少しずつ信頼を失っていくのがわかりませんか?
 
 「一口ちょうだい」ってやる人は本当に相手の感情を読んでほしい。嫌な人はホントに嫌だから。「一口ちょうだい」って言って、一瞬固まる人がいたらほぼ間違いなくその人は嫌だと感じているって。「一口ちょうだい」が当たり前でないことをわかってくれるだけでいいのですよ。頼みますぜ。
 

 
 
 潔癖症ゆえの「一口ちょうだい」嫌いではないので下記の場合は許せます。
 
 ・特別な外食(回し食べが許されている場での)
 ・パーティ形式の食事
 ・居酒屋とか
19:55 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

捕鯨問題と捕鯨反対気分シミュレート

 近頃、捕鯨問題が活性化している。活性化してくれているのは、主にオーストラリアの環境団体だ。グリーンピースもびっくりの過激派シーシェパードがニュースを騒がしている。でもってオーストラリア政府も捕鯨には反対の立場なので、今日本はオーストラリアにめちゃめちゃ嫌われているかもしれないなあ。友人に来年豪州にワーキングヒリデーしにいく人がいるんだが、ちょっと心配だよなあ。
 
 過去の当ブログのエントリーに捕鯨問題について書いたことがあった。(http://glassbottle.blog65.fc2.com/blog-entry-171.html)
 単純に言うと、科学的な根拠を持ち出しても聞かないやつは全く聞かないから、いっそ感情むき出しで喧嘩してしまえば? という投げやり提案だ。でもこれをやったら相当面白いだろうなあと思っていた。結局人間同士のやり取りなんて、感情のやり取りなのであるから、科学なんて小賢しいもので覆わずぶつかり合ったほうがわかってくることも多いんじゃないの? っと言いたいのだ。
 
 で、半分冗談で提案したのだが、なんだかオーストラリア側の方から仕掛けてきた(笑) 船員二人を人質にとった! とか事実を作りながら捕鯨船に嫌がらせをしてきている。感情のために事実すら作り上げる。これはある意味人間の性ってやつで人間行動学的に重要なサンプルがここにあるのではないか。なので、最近の捕鯨問題は見ていて本当に面白い。
 
 これに対する日本の反応はこれまた感情的になってきている。youtubeで豪州のやってきたことの残虐さを訴えたり、そもそも西洋人の身勝手さを叫んだりと、なかなかのものである。中にはネタ扱いして楽しんでいるやつもいて、この辺は平和的だ。しかし確実に“感情 対 感情”の構図が出来上がってきていて、これがどのように収束するのか興味深く見ていきたい。もしかしたら収束しないかもしれないが、“人間とはこんなものだ”っていう貴重な経験値になる。60年前の戦争の時代もこんな雰囲気だったのかもしれない。戦争よりも面白いのは、武力による解決が捕鯨問題の場合にないこと。どこまでいっても感情のやり取りになる。

 豪州人が捕鯨問題にあそこまでムキになっている“気分”をシミュレーションしてみたい。ムキになっている理由なんて考えても、それは感情に対してもたらすものは少ないので、あくまで気分について考えてみる。気分シミュレートスタート。
 
 
 北海道近海に雪猫というとってもかわいい猫がいる。雪猫は日本人にとってパートナーである。日向で一緒にごろごろしたり、もふもうしたり、猫じゃらしでちょっかいだしたり、時にはねずみを取ってくれり。多くの日本人は雪猫を見るととっても和むのだ。
 しかし近頃、豪州人が北海道近海に船を出し、伝統的な食文化を主張し、ボーガンで雪猫を惨殺しまくっているそうだ。豪州側によると、雪猫の生息数は近年増加傾向にあり、調査目的に年千頭の捕獲ならば生態系に問題はないと主張している。しかし科学的に問題がないからといって、あの白くてやわらかい雪猫に何のお情けもなくボーガンの矢を打ちこむなんて考えられるだろうか? ボーガンを打ち込まれた雪猫は悲痛な叫びを残し絶命する。白い毛皮が深紅の血に染まるのだ。ああ! かわいそうに! 北海道の女子高生が泣きながら雪猫捕獲阻止を訴えた。プラカードには“雪猫は私たちのパートナーです”と書かれている。しかし豪州の態度に変化はなく、今日もちゃくちゃくと科学的根拠とやらを集めるため、北海道近海に船を出し調査している。血も涙もない人間とはこのことか! 人類の残虐性に終止符が打たれる時代はまだ来ない……
 
 
 気分的には確かにこうなるかも……
 この問題難しくねーかい?
 
 
19:25 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

豊かな空白

 田舎を懐かしむ気持ちは、自分の中のどこから来ているんだろうか? と東北の小さな村出身の自分が考えてみる。理由の一つを都会と田舎という対比の面からモゾモゾと考えてみたい。

 出身の村は本当に何もなかった。最寄のコンビニまで車で20分もかかる。本屋なんで40分だ。車でその時間なので、自転車やバスしかなかった自分はほとんど家の周囲で時間を過ごしていた。そのころはネットなんて普及していなかったので高校生までパソコンなど持っていなかった。親戚からもらった大量のコピー紙に落書きしたり、空想したり、山道をぼんやり歩いて景色を眺めたりしながら過ごしていた。

 大学進学のため、上京すると自分を取り巻く環境は一変した。単純に言うと、

 ・関わる人間が大幅に増えた
 ・入ってくる情報が大幅に増えた
 ・ネットを導入した

 とこんな具合だ。最初、これは本当に「豊か」だと思った。バスの時間に焦りながら立ち読みしていた高校時代とは全く違う。どこからでも情報にアクセスできるのだ。何にもしていなかった時間が、これら情報と接する・実践する時間へとシフトしていった。

 ちょっと話がそれる。
 先日、旅行の日程を立てていて思った。あれもしたい、これもしたいでスケジュールを決めていったのだが、盛り上がる友人たちを横目に何か似ている、と思った。詰まっていることが良いのだろうか? この場合の良いってのは言葉にすると難しいが抽象的な意味に捉えてほしい。よくある言葉で表現するなら「あれもこれもと表面的に観光して、一体何が残るんだい」ってことに近い気がするが、まだ違う。観光日程よりも、あれもこれもと予定を考える友人たちの気質に何かひっかかるものがあった、というのがもっと近い。

 ここまで書いていて、結局は根が内向的な人間の性質によるんだなと思った。要するに時間的なまたは物理的な空白をどこかに作りたい、と考えているのだ。一続きの、旅行でも何でもの中で。その空白のうちに新しい情報と自分が持っている既存の感覚と絡めあわせたい。あ、コレコレ。この表現でしっくりくる。

 話は冒頭に戻り、田舎の懐かしむ気持ちはなぜ生まれるか、きっと上述の空白がそこにあるからだと身体が気づいているから、というのが理由の一つになるかもしれない。都会ではあらゆる過食の可能性が転がりすぎていて、身体がもたれてしまう。胃腸が悪いからと、身体に良いものを探しまわりそれを食べ続ける感覚に近い。空白が身体に良いという概念が持ちにくい構造なのだ。皮膚が悪い人が皮膚を清潔にしようとして石鹸を使い続ける。身体を洗い続ける。しかし結果として皮膚を守っていたものまで洗い流してしまい、皮膚を傷めることになる。この場合、身体を無理に洗わないほうが良いのに。空白を許さない概念が身体感覚を曇らせ、そういう原始的な信号に気が付かない総体になってしまう。身体と精神を分解するのは好きではないが、精神の原始的な信号を捉えてみたら、空白をほしがっているかもしれない(空白をほしがるってのは不思議な表現だ)。
11:05 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

 「教える」ってことはとっても難しい。

 「教える」ってことはとっても難しい。

 ・技術的な意味での難しさ
 ・時間的な意味での難しさ

 技術的というのは、言葉が相手に通じるかとか、例えが適切であったか、とかそういう意味合いだ。あの人の説明だとわかりやすい、というのは確かにある。助教授に聞いたらサッパリだったが、同じ内容を先輩に聞いたら、「なんだ、こんなことだったのか」てな具合に腑に落ちた、という経験は誰でも持っていると思う。逆に教える立場として、「先生に聞くよりわかりやすかった」なんて言われた日には一日中ニヤニヤしていられるくらい嬉しいものだ。

 教える技術の問題はこの辺にしておいて、もっと考えてみたいのが時間的な意味での難しさだ。大学院生になり、後輩を持つようになるとこの意味での難しさに直面してしまった。正直自分は教えるのがけっこう好きな人間である。自分が理解していることだったら、平均以上にわかりやすく説明できる自信はあるし、なにより相手にわかってもらうのがとても嬉しいと思える体質だからだ。でもそんな自分でも、「教えるのが面倒……」と感じてしまった。なぜかというと、自分の研究にせっぱつまっていて時間的精神的な余裕がなかったからだ。

 時間的な難しさとは、すなわち精神的なものでもある。時間がない! と感じる心が、相手に教えようとする気持ち、モチベーションの向上を阻害しているといえる。単純に言うなら、精神的余裕がないと優しくなれない、ということだ。自分に余裕がないと優しくなれない、というのはなんとも悲しいことだが、多くの人は経験則から賛同してもらえると思う。

 気持ちの問題なら、気持ちの持ちようでなんとかなるだろうという意見もある。自分をしっかりコントロールできないから優しくなれないのだ、ということだ。そういうお叱りは甘んじて受けたい。自分マネイジメントができていないという、これから社会に出る人間としてどうにも情けない話である。自分マネイジメントが出来ている方なら、きっと成功するタイプだろうと思う。けれど、誰もが自分マネイジメントがしっかりできていて、その結果精神的な余裕を持ち、後輩に指導が行き届くようになるかというと、それは相当なハードルの高さだ。もっとシステム全体として万人が精神的な余裕を持てないだろうか? ハードルを低くできないだろうか?

 そこで考えたのが、「週に一回、教える専門日」を設けること。以下のような条件を組織のシステムに加える。
 
 ・中堅社員は週に一日、後輩の指導をする日を設けなければならない
 ・指導日ならば、自分本来の仕事が進行しなくても構わない
 ・後輩社員は、指導日ならば遠慮なく先輩に聞きにいくべし
 ・部署を飛び越えて質問しても良い

 これを導入することで以下のようなメリットが生まれる。

 ・組織における聞きづらい体質をなくす
 ・組織の縦の関係が円滑になる
 ・組織の部署間の関係が円滑になる
 ・技能が組織全体に伝達される
 ・つまり生産性が上がる

 単純に言うならコミュニケーション不全の解消である。コミュニケーション不全は精神的な余裕のなさから来ている部分もあるからだ。このメリットがあるのなら、週に一日仕事が進まなくとも構わないのではないか? 他人に教えることで自分のしていた仕事を割り振り、または協力し合い、結果的に全体の生産性が上がるのだ。

 教えて君が大量発生する?
 でもいきなりググれと言い放つ体質の組織も嫌だと思うなあ。その辺も教えればいい気がする。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥である。他人に教えてもらうのは、時間的効率がすさまじく良いし、けっこう悪くない考えだと思う。まあ、システムのことを考えたって、今は何も変わらないから、とりあえず自分マネイジメントをしっかりやろうかなっと。
01:55 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ディズニーランド化したアキバ

 去る2007年12月31日、安いモバイルノートがほしいと思い、秋葉原に行ってきた。上野で乗り換え。秋葉原はすかすかの上野駅と違い、すごい混み具合だった。外国人もいるし、上京してきたと思われる男性の集団もいた。その人たちはみんな電気街のほうへいく。改札周辺では、アニメの紙袋を持った人が何人もいて、お互い実に楽しそうに話していた。

 そんな人ごみの中をムリムリと進む。中古PCの売ってそうな店へ。ちょっと通りを進むと簡単に見つかった。東芝の12.1型のノートが露店に置いてあって、お値段39,800円。PenMの512MB、40GBでWinPro付き。けっこうお値打ちな気がして、すんごい迷う。通りをうろうろしながら買うか買うまいか葛藤しまくり。

 そんな風に歩いていると、路駐してある車の前に人だかりができているのに気づいた。みんな携帯を取り出して、「すげえな」とか言いながらカシャカシャ写真を撮っている。どれどれ、と覗いてみると、アニメのペイントが施されたロードスターが……。アニメっていっても硬派な感じじゃなくて、なんというかね。車のペイントなんて田舎の不良がやるのもだと思っていたけど、時代は変わったのか。こんな車はどこにでもあった。パチンコ屋の前だったり、十字路を進んでいく途中だったり、まるで街の中のモーターショーだった。ショーなので、観客もいる。どこへいっても注目される、注目する人たちがいるのだ。正直おもしろそうだと思った。

 さらに、女子高生風に女装した男までいた。年齢は20代といったところ。連れらしき友人と一緒に笑いながら歩いていた。正直楽しそうだと思った。おそらく街の空気が、彼らの存在を受け入れてくれているのだろう。似ている。この街はディズニーランドに似ていると思った。ディズニーランドで被り物をしても、全然変に思わないし、むしろランドの中の空気に貢献しているのだ。これってすごい楽しいことなのかもしれない! みんなを楽しませるために、一人一人が何かしら役者になっている。楽しさの循環が発生している。ホントにすごい。

 さてさて、これをアキバとディズニーランドにだけに留めるのは実にもったいないなあ。アキバがもっと広範囲の趣味人を集めるようになったら、さらに面白いかもしれない。個人の社会に役に立たない趣味をまるごと受容する街なんてできたら、うおお、想像するだけでワクワクする。
16:08 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

モチベーションの源泉

 ある人に認められたいと思い、たくさん本を読んだり、勉強していこうと突然決心してしまった。こんなにモチベーションが上がったのは久しぶりである。人の影響ってやはりすごい。就職してもこのような環境や人があったらとても幸せなんだろうなあ。

 結局、自分のためだけに何かをやるのって、限られた人たちにしかできないのかもしれない。誰かのために、努力し、認めてもらう。この認めてもらえる瞬間に、その人から何かを受け取っているのだ。その何かがほしいからみんな努力するんだと思う。今の自分は、この何かが非常に欠乏している。

 だから、ネットワークごしに情報をせっせと集めるよりも、その誰かに認めてもらうために、または出会いに外へ出かけていくのは実に有意義なことだと思う(ネットを使うな、ということではなく、ね。手段として使うのは全くあり)。尊敬したくなるような人物を求めて。そしてその人物から認めてもらうために。
04:52 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

後になって思い返すと 系

 「後になって思い返すと、ああ素敵な出来事だったなあ」
 「もっともっと頑張れたけど、でも今だからこそ出来る後悔なんだよ♪」

 こんな感じのにすごい違和感。
 あうあうあーーって感じ。
 自分の事過剰評価しすぎ??
23:53 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

料理を作るメリット

 今日は東京国際マラソン。とってもいい天気なので選手の皆さんは良いタイムを期待いているかもしれません。ブログ書いて、洗濯物を干したら、自分もお出かけ。今日は自分の描いた絵が展示されているので、その展示会場へ。といってもアマチュアの展示会ですけどね。

 昨日は夕食にシチューを作った。このごろ食事もまともに作らないので、バランスを取るために久しぶりに作ってみたのだ。「食事」というのは、栄養を取る以外にも、人間にとってずいぶん特別な意味があるように感じる。それは儀式的な面と、脳の調整という面で。

 儀式的な面とは、人間として生きる尊厳を保障する行為という意味合いだ。米を炊く。野菜を切る。においを嗅ぐ。水で洗う。肉を切る。血を見る。火を使う。これら一つ一つにたくさんの命がかかわっていることに気づく。そしてそれらを使った料理は、このたった一つの命を存続されるために消費される。食材を作るところからいかなくとも、ずいぶんと命の流れみたいのを感じることができる。そこから得られる複雑な模様が、生きる尊厳を保障しているように思えるのだ。

 脳の調節という面。物を作るというのは、色んな神経を使用する行為だ。普段の仕事に使っていない部分も多いはずである。普段の仕事で磨り減っている部分以外を使うことで、脳の神経のストレッチ効果が生まれるような気がする(実際に、家事は脳を活性化されるという報告もある)。

 とまあ、こんな具合に食事を作るというのは、消費される時間に見合ったメリットがたくさんあるように思うわけだ。最近頭がすっきりしないという人は、料理を作るとあっさり直るかもしれない。
12:33 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

自分の居場所 取捨選択

 今日は、大学のサークルと飲み会。開催前はそんなに気が乗らない気もするのだが(変な日本語……)始まってしまうと、他のどんな集まりよりも落ち着いて話したり、飲んだりできる。きっとみんな自分の居場所が認識できているからなんだろうな。この集まりで四年間(+二年)過ごしてきたのだから。

 飲み会中、一人の友人が「もうこの集まりで六年になるよね!? これって小学校一年から六年まで一緒だったのと同じじゃない?」と一言。確かにそうだ。年だけ考えればその通りだ。サークルとクラスメイトで違いはあるものの、これからも十分大切にしていける、というか大切にしていかなくてはならないグループなのだなと思った。年月の積み重ねがそれをほほえましく保証してくれている。その言葉で、不思議に嬉しい責任感が沸いた。

 自分の居場所について考える機会は多い。こういう人に囲まれていたいとか、こんな先輩を持ちたい、尊敬できる人が近くにいたら頑張れる、とか実に色んな欲求を抱えて。けれど、そういうものは手に入らないことの方が多い。それであーだこーだ考えたりする。でも環境やタイミングによって自分の居場所は、おわんの中に投げ入れた球が、中心部で運動を収めてしまうように、無理のない形で決まっていく。そしてそこから見た景色に対してまた色んなことを思うわけだが。

 今、収まった自分の居場所についてどう考えるべきか。こう考えた時、自分はあるアマチュア劇団の冊子に書かれていた文章を思い出す。

「今自分のいる場所がもっとも自分に合った場所なんだ」

 ある種の諦めのような心持ちをしている、とも感じるが、もっと強くポジティブな感覚としても捉えられる。この言葉に出会った時、非常に強い安心感を覚えた。もっと自分の作ってきた環境や作られた居場所を誇らしく重い、そして大切にしていいんだ。もっと周囲の人たちを愛すべきなんだと。

 自分が今までかかわってきた全ての関係を大切にすることは無理だ。けれど、この関係だけは大切にしたい。そう強く決心した飲み会でした。
01:42 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

小沢さんのISAF参加検討について

久しぶりに政治的な話でも書くことにする。

民主党の小沢代表が自衛隊のISAFへの参加を検討している、という。国連の決議による部隊の派遣なら憲法に違反することはないし、筋の通ったやり方での国際貢献となる、ということらしい。

ずいぶん、踏み込んだ意見である。現政権のテロ対策を批判している民主党だが、この意見は攻守逆転しかねない危険性を持っているように感じた。さてさて、一般の人は民主党のこの意見を聞いてどう考えるのだろうか? 筋の通った小沢さんらしい考え方だ、として賛同するんだろうか?

私の感覚では「危なっかしい」だ。国連の安保理決議があれば、国連の都合に従って、自衛隊がどんどん海外へ出て行く可能性が出てきたのだ。自衛隊の海外派遣が武力行使につながる、という意味で危なっかしいということではない。自衛隊の方々の身を素直にあんじているのである。アフガニスタンでのISAF活動による死亡者は160人にも及ぶらしい。前線か後方部隊か、にもよるだろうが、仮にISAFに参加した場合、自衛隊に死者が出る可能性は非常に高くなるだろうと思う。小沢代表は国際貢献のためなら、多少の危険のやむ得ないと考えているが、私を含めた一般国民の心情としては、「多少の危険」ですら嫌なのだと思う。

このような小沢代表の意見を聞くと、自民党とはずいぶんバランスの取れた政党なのだなと感じる。「テロとの戦い」と「自衛隊がかぶる危険」のバランスを取った「給油活動」という方法で国際貢献を達成している。このバランス感覚は秀逸だと思う。自民党が国際貢献を考えた場合、筋が通らないような案を出すのには理由がある。筋を通すと危険が大きいからだ。危険性や国際事情によって、自分の意見を変えたいのである。なぜなら政党の支持者がそういう感覚だからである。理屈のために血を流すのではなく、血を流さないような理屈をそのつど考える、これが日本外交の本音なんじゃないかと思うのだ。

またテロとの戦いとは日本にとって、それほど重要なことだろうか? 間接的な重要性は理解できる。間接的な重要性とはアメリカや欧米諸国とのつながりを保つというもの。直接的なものとは中東のテロリストが日本の国益にとって何か問題あるか?ということだ。これって意外に想像しがたいのではないか? テロは日本にとって直接降りかかった火の粉なのだろうか?

18:42 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (1) | edit | page top↑

選択肢が無限大(に見える)の世界を生きるリテラシー

 最近の人は「最高の幸せ」を求めている気がする。具体的には健康と恋愛に関して「最高」のものを求めている。この二つはテレビなどメディアである意味もっとももヒステリックに取り上げられている分野ともいえる。卵が先か鶏が先か、最高志向が先かメディアが先か、それはわからないが、そのように感じる。

 どうしてこんなことを思ったのか。それは実家の祖母を見るとそう思う。彼女はお見合いで結婚した(しかも同じ地域内の人と)。今の人はお見合いを恋愛の妥協のように考えるが、彼女の中ではそれは現実的な選択であったのだろうと思う。それでやはりこんな人と結婚するんじゃなかったとか、そういったことは一切言わない。今ある状況を「こんなはずじゃなかった」と表現することもない。ただ今ある環境を受け止めて、自分よりも他人優先の思考をして、どこに自分のこだわりがあるのかよくわからない人だ。

 今の人はそれに対し無限に近い可能性を持っている。選択肢の増加は最高志向を生むのだなと思わせる。それが良いか悪いか、正直わからない。しかし最高志向は疲れるのだ。どこまでいっても満足しない。そして自分が思い描く「最高」に対して、自分がふさわしいかどうかは考えないようにしている傾向にある。そして私自身も漏れなくその一人だ。最高の人と出会い結ばれることを常に考えている。どこかで妥協するなんてちょっと考えられない。最高の人とは自分が愛することのできる人、というのは間違いないのだが、妙に理想だけが高くなって苦しい重いをしている。

 「最高志向」と「選択肢」の増加に話をフォーカスすると、これらは本当に良いことなんだろうか? と常々疑問に思っている。一言で言うと、あるかどうかわからない最高を追い求めて磨り減るのは自分なのではないかということだ。情報がオープンになっているので、最高は人々の中で共有されている(なんとなく良いものはわかる)。だけれど、自分がその最高に対して相応しいかどうかの観点がないまま、あるかどうかわからない最高を求めるというのは(良いのがわかるのと、良いのがあるというのは違う話しだ)、ずいぶん苦しい話なような気がする。青い鳥ではないが、「本当の最高」とは意外と陳腐だと思っていた自分の周囲にあるのかもしれない。自分のいる状況とは、自分がそこにいることを許された状況なのであるから。そこで最高を探すもの悪くない。祖母もそう思ったのかもしれない。

 選択肢が無限大(に見える)の世界を生きるリテラシー。そいつを身につけたい。
10:24 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

Sony Rolly発売

 どんな製品か期待していたら……え? これを売るつもりなのだろうか? たぶん売れないと思う。売れない理由はいくつか思いつくが、改めて書く必要はないだろう。直感的に「いらない」と思ってしまう製品だからだ。

 でもちょっとだけ良いなと思う点についても書きたい。この機種発売で思ったのがSonyはappleと違って「ハードウェア」でもエンターテイメントしたい企業なのかもしれないということだ。機械的電機的技術によって楽しませようという気概を持った企業だと思った。確かに音楽プレイヤーがクルクル回ったり、アチコチに移動したりするのは楽しさの観点から言えば微妙なのかもしれない。けれど、映像にはないリアルの質的な楽しさ(ハードウェアが供給する)を追い求める姿勢は素直に評価したい。ipodは商品コンセプトが多くの人に認められたが、認められた部分というのはやはりコンセプトであって純粋なハードウェア的なものではない。appleがハードウェア的に気を使っている点は、見た目だとか
製品の質感といったもので(確かにそれは十分素晴らしい)、ハードウェアそのものが提供するエンターテイメントというものは見当たらない。

 ソフト、コンセプトといったものは確かに重要である。それらを見極めることで、既存のハードウェアの組み合わせによる全く新しい製品といったものが登場する。しかしRollyの発売で垣間見れたのは、ソフト、コンセプトという真っ当な新製品へのプロセスではなく、他社にマネできないハードウェアと制御技術とソフトの組み合わせによる新製品へのプロセスだった。アイボや二足歩行ロボットといったハードウェアを作ってきたSonyだからこそ可能なエンターテイメントへの挑戦だったと思うのだ。

 蛇足かもしれないが、日本企業の挑戦といった全体的なものを暗示していると思われる。自動車、素材、精密機器などハードウェア技術に利している企業がどう戦っていくのか。それを占う形になるかもしれない。ただ今回ばかりはSonyのプライドの暴走だろうと思う。


 Sonyはappleとは違うエンターテイメント企業としてのアイデンティティを模索している段階なのだと思う。ipodでSonyはかなり悔しい思いをしただろう。音楽に確信をもたらしてきた自負があったが、ipodでおかげでウォークマンのブランド力が急激に低下し、ある種安住してきた今の状況を再確認したと思う。

 はたしてSonyとは何なのだろうか? 

 この疑問にSony自身が迷っている。プレイステーションに並々ならぬ意地を見せるのは、Sonyのアイデンティティがかかっているからである。音楽プレイヤー分野での失地回復を目指すのはアイデンティティを回復させるためである。私はそんなSonyを応援したい。
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