宮沢賢治「春と修羅」へのアプローチ

 宮沢賢治の詩集「春と修羅」を読んだ。普通、詩集と聞いて想像できるような内容ではなかった。たぶん詩集というカテゴライズは正しくないんだと思った。読んでいて、あまりにも読者と共有体験が少なく、自分からの遊離感は相当なものだったが、しかしながら宮沢賢治の感性というものはやはり魅了的であって(そのような気がして)、自分を重ねるというよりは、彼が語りかけることを知るために読んでいるような気分になる。

 彼が語りかける多くのことの大部分は理解不能である。それでも言葉の響きや語句が想起させるイメージに浸ることはできる。ある瞬間、詩に意味を感じるときがくる。その瞬間は格別である。それ以外は、彼の感性との間に不思議な距離感を感じながら、流れ落ちてくる色彩を味わうのである。これが今現在の自分にできる唯一の「春と修羅」へのアプローチだ。


  もうけっしてさびしくはない
  なんべんさびしくないと云ったとこで
  またさびしくなるのはきまっている
  けれどもここはこれでいいのだ
  すべてさびしさとかなしさとを焚いて
  ひとは透明な軌道をすすむ
  ラリックス ラリックス いよいよ青く
  雲はますます縮れてひかり
  かっきりみちは東へまがる


 この部分は銀河鉄道の夜に通じる部分があるように思えた。

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武者小路実篤「愛と死」

 武者小路実篤の「愛と死」を読んだ。
 同氏の著作「友情」によく似た、悲しいながら強い小説だったと思う。


 内容は、さまざまな恋愛や人生の形が氾濫している現代人の私たちにとっては、非常にシンプルでドラマのないようにも感じられる。実際、何が面白かったの? と聞かれたら「面白かったというよりは……えーと…」という答えになりそうだ。簡単に紹介するなら、主人公の村岡がパリに遊学しに行っている間に、結婚を決心した女性・夏子が死亡してしまう、という話だ。他にドラマは何もない。村岡の友人たちと、夏子のことを話しながら、村岡の心情を開かして、それだけで終わる小説である。


 そのシンプルな構成の中で光るのは、二つの対立する事実を内包する覚悟であろうか。
 二つの対立する事実とは、
 ・生きている者は生きていかなければならないこと
 ・生きている者は死んだ者に対して無力であること


 村岡の悲しい決心は作中で二度ほど登場した。そのうちの一つを紹介すると


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 「元気にします。元気にします」と自分は心の内で言ったが、同時に
 「あなたが居ないのに元気になれというのは無理です」と言った。
 「そんなことをおっしゃるものではありません」
 そんな声が聞こえそうな気がした。


       中略


 僕は言った。
 「ともかく戦うつもりだ。負けていない」
 「僕もそれを信じている、夏ちゃんもそれを望んでいるにちがいない」
 「だが、実にさびしい


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 生きていく決心はついたが、しかしさびしい。
 あんまりにも残酷な状態である。どれだけ精一杯、一生懸命に生きても、村岡がもっともわかってほしい相手はもういないのである。死者は既に神のごとく領域に居て、生者の心は届かないと信じる一方、死んだ夏子の可愛そうな気持ちを推し量らずにはいられないという村岡の感情。この二つを同時に持ち合わせるというのは、なんたる強さであろうか! しかしなぜなのだろうと思った。もっと楽で合理的な納得の仕方があるはずなのに……。この小説は、自分が精一杯生きることが、死んだ人間に対する報いとなる、という常識を使っていない。報いたいという気持ちはあるが、それでも死者を慰めることはできない、という苦い矛盾を内包し、泥の中をを這うように生きていくことを決意している。それはなぜだろうか?


 死者は無心であり、神の如きものでありすぎるという村岡の信念は、おそらく夏子のことを思っての信念だったろうと思う。自分の勝手な推測だが、村岡の慰めが夏子に届かない代わりに、夏子に永遠の安息を保証させたのではないか。*******************************************************

 今でも夏子の死があまりに気の毒に思えて仕方ないのである。しかし死せるものは生ける者の助けを要するには、あまりに無心で、神の如きものでありすぎるという信念が、自分にとってせめてもの慰めになるのである。それより他仕方がないのではないか。


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 作中の夏子の元気でけなげな躍動感が、そのまま慣性となって、読む者の心の内を流れていく。その静かで哀れなスピード感が、村岡の諦めの境地を表現しているように思えた。

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蹴りたい背中

 ちょっと酔っていて気持ちいい。今日は久しぶりに大学から早く帰ってきたので余裕があるおかげかもしれない。

 最近読書をよくしている。騒がれていたときはまったく興味が沸かなかったのだが、綿矢りさの「蹴りたい背中」を呼んだ。所要時間2時間弱。380円なのでお買い得。以下、ネタばれですので。

 さて読後の感想だが、なかなか痛くてよろしいのではないか。別に皮肉でもなんでもなく「痛い」。自分も高校のある時期あんな感じだったので懐かし痛い! 思うに不器用な人間は何かと強気になりがちだ。それが自分の周囲の堀をさらに深めることになったとしても、それしか方法がないかのように、孤高を極めていくことになる。そうして自分のコアを守っている状態になれるのだ。

 主人公のハツもこんな感じだろう。グループに入るのが本当に嫌でしょうがない女性。部活もクラスの集団がなんだか演技染みていて、心がそこに本気になれない。自分はそんな思いで、孤独になったわけではないから、けれどわからなくもない。高校生にとって一人とは、自分の価値観がどうあるかにせよ、周囲から嘲笑されているような感覚を持つものだ。本当に孤独を愛する人間ならば、それすらどうでもよいことだろう。だから自分も主人公のハツも、ただ集団にうまくなじめない凡人なのだ。もしタイミングと周囲の人間のうまいフォローがあるのならば、何の問題もなく集団生活を送れるタイプだと思う。

 ちなみに、高校のクラスであまりうまくいかなくとも大学にいけばより自由で豊かな環境がある。高校生の方で、今はうまくいってなくとも、もう少ししたら黄金の時間が待っていると言いたい。

 話がそれたが、ハツという凡人の少女はクラスのもう一人の少年に不思議な暴力的な衝動が湧き上がる。解説にも書いてあったが、どこかエロティック。自分よりもはるかに一人の道を地で行く、キモい少年にそんな感情が沸き立つ。ここでポイントはキモいことだ。もしかっこいい青少年が、わが道を歩もうとしたら完全に青春小説になってしまい、ハツも彼には近づこうとは思わないだろう。けれどキモいセンシティブなアイドルおたくなのだ。

 このキモ少年と凡人孤独少女ハツの間に、非常に複雑な色彩が見え隠れする。それを持ってきた綿矢りさは、なるほど確かに最年少なんたら、というだけのことはあると思った。






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川端裕人「せちやん 星を聴く人」

 今日、三時間で川端裕人氏作「せちやん 星を聴く人」を読んだ。川端裕人の小説は文庫本ならば全て持っていて、どれも非常に楽しめた。ちょっと昔の、人間がテーマの真面目で重厚な小説を読んだあとは、川端氏が書くような取材や知識に裏付けられた、現代の感性や事実を背景にした小説を読んでみたくなる。ご飯もいいけど、パンもね、みたいなイメージ。いつも氏の小説は何日かに分けて読んでいるのだが(とくに理由はないが何故かそうなる)、「せちやん」は読んでいて本から目を離せなくなり、自然と一気に読めてしまった。

せちやん


 文庫の裏表紙の紹介文を中途半端に読み、帯のあおり文を読んだら「星を観察する中年にあって、触発されて天文学者になったり、表現者になったり、まあそんな青春物なのかな〜」と安易に予想していた。また作品の前半部分まで読み終わっても、そう信じて疑わなかった。さらにいつも変わった設定と展開でお気に入りの川端裕人氏なのだが、今回はさぼったか!? と疑ってしまったほどだ。へー、ノスタルジィとロマンチック掛け合わせた量産品って具合に。氏よ、ごめんなさい。
 
 
 さて、裏表紙の紹介文は以下の通り
 
 
 学校の裏山にぽつんと建つ摂知庵(せちあん)という奇妙な家。少年三人組はそこで神秘的な中年男と出会った。銀色のドームに籠もり、遠い星に思いを馳せる日々。「宇宙」に魅せられた少年たちはそれぞれ大きな夢を追いはじめた。しかし大人になって見上げる空は、ときに昏(くら)く……。切なくほろ苦い青春の果てを描く傑作小説。

 
 まあ、そんな話なんです。で読後の感想なんですが……
 
 
 
 暗い……
 
 
 
 話が進むにつれて、どんどん寂しくなる。一人になっていく。読むものは、それが変に快感になり読むのをとめられなくなる。螺旋を下るように、ある一点に落ち込んでいくような感覚で、どこまでこの主人公が落ち込んでいくのか、見たくてしょうがなくなる。帯のあおり文にあった「詩人、天文学者、バイオリニストがなんちゃら」、というのが逆に効果的に作用する。そんな未来のはずだったのに…… 加速的に時間は流れる。主人公はどんどん年を取る。友人は死んでいく。財産も失う。古傷のある膝のせいで四十代にして杖をつく生活となる。
 
 初めに予想していた展開を裏切られた分、「読むはずじゃなかったストーリー」を読んでいるような感覚に陥る。あまりの急落ぶりに、自分が小説を見ている夢を見ていて、それでこんなに展開がおかしいんじゃないのか? と疑ってしまった。スピリチュアルだの、タウ星人だの、一見頭のおかしい連中が主人公にべたつくようになる。そんなものしかつかなくなる。でも結局スケールは違えど、相似であることに気がつく。宇宙に取り付かれたもの、スピリチュアルに取り付かれたもの、アニメの設定と人類の救済に取り付かれたもの、みんなそれらに自己を預けている。
 
 「汎庸な精神をもってただ耳を澄ますだけの人だった」と主人公はせちやんとなった自分を、そう評価する。結局、この一言に尽きるだろう。彼は、宇宙の漆黒の低温を、現実的に感じたのだ。それ以外意味はないと。文庫版の解説では、このセリフを青春小説のふうに解釈しようとしているが、自分には全くそうは思われない。かっこつけて表現するなら、これは青春小説などではなく、宇宙の冷たさがある人間の人生に降りてきたような、低温小説だと思う。
 
 ダイイング・メッセージと主人公が解釈したように、主人公が受信した宇宙からのメッセージ、が地球よりちょっぴり進んだ文明の地球に向けた遺言だったとすれば、宇宙からまた一つ隣人が消えたことになる。地球での隣人を失い、最後に身を預けた宇宙の隣人からもさよならを告げられたとすれば、これほど寂しい孤独はないかもしれない。
 
 で、今自分は就職活動に取り組もうとしている時期なのであるが、こんなに暗い人生を見せられると凹む。つらい。二度も妻に(妻にしようとした女性を含め)逃げられる。こんな人生嫌です。孤独は嫌です。精神的な孤独、とかそういう高尚なものでなく、全方位的孤独、最高に暗い。この宇宙に出口がないように……
 
 
 
 
 
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武者小路実篤「真理先生」

 今時、武者小路実篤なんて読んでいる人なんているだろうか? 少なくとも自分の周りには一人しかいない(一人もいる! ……か?)。その友人の薦めもあって読んだ「友情」に非常に感銘を受けたので、実篤の別の小説も読んでみたくなり「真理先生」を読んでみた。

 この真理先生というお話は、裏表紙にも書いてあるが“善人”ばかり出てきて物語が展開していく。主人公の山谷は、自分で思ったとおりのことをしているが、それが周りに良い影響をもたらすような人間で、彼の行動を機軸に様々な人間模様が描かれている。読んでみたら、善人ばかりというキャッチフレーズは本当で、誰一人として悪い奴は出てこない。解説にも書いてあったかもしれないが、善人とは単に人が良いということではなく、自分の道に対して不断の努力と誠実さを持って歩いていく人間のことであろう。作中誰もが真剣で、誰もが誠実であった。

 さて、つまらない前振りはこの程度にしておいて――
 作品を読んでいて、題名は「真理先生」となっているが、どうも「馬鹿一」の方に焦点があっているような気がした。馬鹿一とは登場人物の名前のことであるが、別名「石かき先生」といい、石や雑草を馬鹿みたいに書くから馬鹿一、だったと思う。この石かき先生は自分も認めているように、誰からも馬鹿にされ軽蔑され、貧しく下手な画家、そして醜い老人。しかし、絵は下手ながらも誰よりも対象を愛し誠実に書く人間だった。これを真理先生は「これほど誠実に書かれた絵は見たことがありません」と見抜く。これは理想的だなあ、と思った。頭も弱く、醜い老人が誰かに認められ、更に感化され、個性の伸ばしていく様は実に理想的だと思った。
 
 ・努力を怠らない人間には必ず仕合せが訪れる
 ・誠実な人間は、誠実な人間に分かってもらえる
 ・良い人間の周りには良い人間が集まる
 ・良い人間が集まれば、更に切磋琢磨し向上する
 
 そんな理想がこの作品には込められているように感じた。そんな幸福がこの作品に込められているように感じた。馬鹿一はそれをある出来事をきっかけに享受していく様が描かれていたように思う。主人公を含めた周りの人間はそれを、自然に補佐しただけというか、なるべくして必然的に手を貸しただけなのだ。
 
 孤独に絵を描いていたはずの馬鹿一の自宅に、山谷と愛子とモデルの杉子が集まるシーンがある。そこでは互いに尊敬しあいながら、会話を交わす四人が居た。「今日、この室の美しさ」――馬鹿一が紙切れに書いた言葉であるが、上記にあるような幸福をはっきりと感じている瞬間であろう! 一つの頂点がここに垣間見える。――が、この頂点を迎えるには、馬鹿一は自分の宿命を悟らなくてはいけなかった。モデルの杉子が画家志望の稲田と恋に落ちたため、もう馬鹿一のために裸婦のモデルをやりたくないと言い出したことが起点となる。おそらく、この段階で馬鹿一は自分の宿命と、この出来事をすり合わせて、静かに悟ったのだと思う。杉子とは一緒にいることができない、やはり自分は石を描く画家だ、杉子は自分の絵に対して影響を与えたが、宿命はそれ以上の意味をもたせてはくれなかったのだと。以下、馬鹿一の言葉を引用する。
 
 
 「やはり僕は僕だ。僕以上のものにはなれない。
  僕は僕で満足するより仕方ない。やはり僕は僕の宿命を持っている。
  杉子さんが出てきても、僕の宿命はどうにもならないのだ。
  しかし僕の宿命に無関係とも思わないが、
  その点でこの石とそう違っているわけではない。
  僕はそれを悟る時が来たのだ。
  もう醜態を演じないですみそうだよ」
  
  
 これが馬鹿一にとっての「真理」であったのだろう。真理は必ずしも瞬間瞬間の幸せを導いてくれるわけではない。しかし真理を受け入れたとき、世界がさらに美しく見え、運命の残酷さに耐え、前進する気概となり、馬鹿一はまた石を描くのだろうと思う。

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武者小路実篤「友情」

たまたま手に取った薄めの文庫本、それが武者小路実篤の「友情」でした。
簡単に紹介すると、杉子に恋する野島が、親友の大宮にその杉子を持っていかれる話。
な〜んだ、と思われないで欲しい。これは一応友情(と…)の話なのだ。
野島の親友大宮は、非常に良くできた青年で野島から杉子に恋していると聞かされた時、真摯に応援するようなやつであった。
大宮のこの真摯な行動は最後まで貫き通される。

一方の野島は、大宮と共に人類のために作家を目指すと青年。
杉子に身が焼けるほど恋をする。
「どうか傍らで俺の仕事を見守ってほしい
 世界中の人間が俺を批判しても、杉子よ、君だけは俺を尊敬してほしい
 神よ! この寂しさから俺を救ってくれ!」
と、こんなお人。杉子に恋するあまり孤独を恐れる気持ちが際立っている。
また野島は大宮と違い、まだ世間で認められていない作家。
批判ばかりされ、誰か自分のことを認めてくれる、一緒に仕事をしてくれる女性を求めていたに違いない。

思えば恋をすると自分も、異常に人恋しくなった。
そして、まだよくわからない相手に過剰なまでの幻想も持った。
野島は自分と同じで容姿もいまいち、運動もできない男だ。
だから「俺の精神を魂を見てくれ」という文句もあった(たしか
その野島に尋常ならぬ共感を持つことができた。

しかし現実は厳しく、野島の恋は実らなかった。
杉子は大宮を慕うあまり、最初は避けていた大宮もついに杉子の気持ちを汲み取ることになったのだ。
大宮は孤独の淵で苦しむ野島に海外から手紙を寄越す。
その手紙には杉子と結婚するに至った経過や野島を鼓舞する内容が書かれていた。
「君は人類のために偉大な仕事をする男だ。一連の事態は神が与えた試練なのだ。これに耐え、さらに高みに行け」と。
野島は大宮の真摯な態度に感謝すらした。
そして大宮と仕事(作家)で決闘をすることを誓った。

ただ小説の最後、野島の台詞はあまりに悲しい。
一連の事態は試練と受け止めよう。大宮の友情にも感謝しよう。
人類のために大きな仕事をしよう。
しかし! 血の涙を、震えながら、歯を噛み締めながら流す野島の姿が浮かぶ。
そんな最後の台詞は是非あなたの目で見ていただきたい。
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国境の南、太陽の西

雨がしとしと。暑苦しくむしむしする日々が続く。
幸い研究室のクーラーは快調なので、室内にいる限り快適だ。

さて、今日は村上春樹好きの友人から「国境の南、太陽の西」を借りた。
簡単に言うと熟年不倫ストーリーである。

もちろん自分は不倫物が好きだ、とかそういうことではない。
それにも関わらず、今までに感じたことがないくらいの共感を感じた。

ここでは恋愛を通した、自分の補完が語られている(と思う)。
主人公のハジメは仕事をしていても、ガールフレンドと付き合っていても
いつも自分の中に空白を感じている。
生活は何不自由なく、性格の良い妻と二人の娘。ビジネスも順調。
それでもないか足りない。これは「本当の自分」なのか? と。
主人公ハジメはそれを女性に求めた。
おそらくそれは女性との性交であり、会話であり、友情かもしれない。
村上は女性が自分の空白を埋めようとする魅力を吸引力と表現し
どうしょうもなく、それに魅かれていくハジメを描いた。
そして主人公にはそれを実践に移す素質があったし、自覚もあった。
作中では、自分はどうしても悪を成す人間なのだ、というような表現がされている。
これは後半さらに自覚的に表現され主人公に
「また君を(妻を)裏切るかもしれない」と妻に対して言わせている。

繰り返すが、自分はこの物語を強い共感を持って読むことができた。
これをただの浮気もののストーリーだと思ってはならない。
これは自分を補完する人間の存在と、それを察知する感性を持つが故に
そして正直が故に、思いもがく人間の求道物語である。

ただ、そういった主人公の気持ちは、これでもかというくらい
周囲の女性に察知された。女性の感覚とは恐ろしいものだ。
そして女性の方が(あらゆる意味で)我慢がきいている。
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