バイトで言われたうれしいこと
09/24/2007 (Mon)
今日は三連休の最後の日。起きてバイトに行って一日が終わろうとしている。労働時間は6時間程度なので、これだけで一日が終わるのは非常にもったいない。あと何かひとつしてから眠りに尽きたいところ。けど非常に眠いところ。
バイト先で同年代の人に「やせたねー」といわれて上機嫌。そうです、やせる努力をしているのです。去年一年間でふっくらしてしまったため、今少々の食事制限と姿勢矯正法でもって体を元に戻している。そもそもそんなに食っていないのに、ふっくらしてしまったのはあまり筋肉を使わない生活をしていたからだ。この調子でバリバリやせていきたい。
本来太っているキャラではないため、ふっくらしているとけっこう違和感があるっぽい。不摂生な生活をした罰だなコレは。
バイト先で同年代の人に「やせたねー」といわれて上機嫌。そうです、やせる努力をしているのです。去年一年間でふっくらしてしまったため、今少々の食事制限と姿勢矯正法でもって体を元に戻している。そもそもそんなに食っていないのに、ふっくらしてしまったのはあまり筋肉を使わない生活をしていたからだ。この調子でバリバリやせていきたい。
本来太っているキャラではないため、ふっくらしているとけっこう違和感があるっぽい。不摂生な生活をした罰だなコレは。
選択肢が無限大(に見える)の世界を生きるリテラシー
09/23/2007 (Sun)
最近の人は「最高の幸せ」を求めている気がする。具体的には健康と恋愛に関して「最高」のものを求めている。この二つはテレビなどメディアである意味もっとももヒステリックに取り上げられている分野ともいえる。卵が先か鶏が先か、最高志向が先かメディアが先か、それはわからないが、そのように感じる。
どうしてこんなことを思ったのか。それは実家の祖母を見るとそう思う。彼女はお見合いで結婚した(しかも同じ地域内の人と)。今の人はお見合いを恋愛の妥協のように考えるが、彼女の中ではそれは現実的な選択であったのだろうと思う。それでやはりこんな人と結婚するんじゃなかったとか、そういったことは一切言わない。今ある状況を「こんなはずじゃなかった」と表現することもない。ただ今ある環境を受け止めて、自分よりも他人優先の思考をして、どこに自分のこだわりがあるのかよくわからない人だ。
今の人はそれに対し無限に近い可能性を持っている。選択肢の増加は最高志向を生むのだなと思わせる。それが良いか悪いか、正直わからない。しかし最高志向は疲れるのだ。どこまでいっても満足しない。そして自分が思い描く「最高」に対して、自分がふさわしいかどうかは考えないようにしている傾向にある。そして私自身も漏れなくその一人だ。最高の人と出会い結ばれることを常に考えている。どこかで妥協するなんてちょっと考えられない。最高の人とは自分が愛することのできる人、というのは間違いないのだが、妙に理想だけが高くなって苦しい重いをしている。
「最高志向」と「選択肢」の増加に話をフォーカスすると、これらは本当に良いことなんだろうか? と常々疑問に思っている。一言で言うと、あるかどうかわからない最高を追い求めて磨り減るのは自分なのではないかということだ。情報がオープンになっているので、最高は人々の中で共有されている(なんとなく良いものはわかる)。だけれど、自分がその最高に対して相応しいかどうかの観点がないまま、あるかどうかわからない最高を求めるというのは(良いのがわかるのと、良いのがあるというのは違う話しだ)、ずいぶん苦しい話なような気がする。青い鳥ではないが、「本当の最高」とは意外と陳腐だと思っていた自分の周囲にあるのかもしれない。自分のいる状況とは、自分がそこにいることを許された状況なのであるから。そこで最高を探すもの悪くない。祖母もそう思ったのかもしれない。
選択肢が無限大(に見える)の世界を生きるリテラシー。そいつを身につけたい。
どうしてこんなことを思ったのか。それは実家の祖母を見るとそう思う。彼女はお見合いで結婚した(しかも同じ地域内の人と)。今の人はお見合いを恋愛の妥協のように考えるが、彼女の中ではそれは現実的な選択であったのだろうと思う。それでやはりこんな人と結婚するんじゃなかったとか、そういったことは一切言わない。今ある状況を「こんなはずじゃなかった」と表現することもない。ただ今ある環境を受け止めて、自分よりも他人優先の思考をして、どこに自分のこだわりがあるのかよくわからない人だ。
今の人はそれに対し無限に近い可能性を持っている。選択肢の増加は最高志向を生むのだなと思わせる。それが良いか悪いか、正直わからない。しかし最高志向は疲れるのだ。どこまでいっても満足しない。そして自分が思い描く「最高」に対して、自分がふさわしいかどうかは考えないようにしている傾向にある。そして私自身も漏れなくその一人だ。最高の人と出会い結ばれることを常に考えている。どこかで妥協するなんてちょっと考えられない。最高の人とは自分が愛することのできる人、というのは間違いないのだが、妙に理想だけが高くなって苦しい重いをしている。
「最高志向」と「選択肢」の増加に話をフォーカスすると、これらは本当に良いことなんだろうか? と常々疑問に思っている。一言で言うと、あるかどうかわからない最高を追い求めて磨り減るのは自分なのではないかということだ。情報がオープンになっているので、最高は人々の中で共有されている(なんとなく良いものはわかる)。だけれど、自分がその最高に対して相応しいかどうかの観点がないまま、あるかどうかわからない最高を求めるというのは(良いのがわかるのと、良いのがあるというのは違う話しだ)、ずいぶん苦しい話なような気がする。青い鳥ではないが、「本当の最高」とは意外と陳腐だと思っていた自分の周囲にあるのかもしれない。自分のいる状況とは、自分がそこにいることを許された状況なのであるから。そこで最高を探すもの悪くない。祖母もそう思ったのかもしれない。
選択肢が無限大(に見える)の世界を生きるリテラシー。そいつを身につけたい。
宮沢賢治「春と修羅」へのアプローチ
09/21/2007 (Fri)
宮沢賢治の詩集「春と修羅」を読んだ。普通、詩集と聞いて想像できるような内容ではなかった。たぶん詩集というカテゴライズは正しくないんだと思った。読んでいて、あまりにも読者と共有体験が少なく、自分からの遊離感は相当なものだったが、しかしながら宮沢賢治の感性というものはやはり魅了的であって(そのような気がして)、自分を重ねるというよりは、彼が語りかけることを知るために読んでいるような気分になる。
彼が語りかける多くのことの大部分は理解不能である。それでも言葉の響きや語句が想起させるイメージに浸ることはできる。ある瞬間、詩に意味を感じるときがくる。その瞬間は格別である。それ以外は、彼の感性との間に不思議な距離感を感じながら、流れ落ちてくる色彩を味わうのである。これが今現在の自分にできる唯一の「春と修羅」へのアプローチだ。
もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさとかなしさとを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
かっきりみちは東へまがる
この部分は銀河鉄道の夜に通じる部分があるように思えた。
彼が語りかける多くのことの大部分は理解不能である。それでも言葉の響きや語句が想起させるイメージに浸ることはできる。ある瞬間、詩に意味を感じるときがくる。その瞬間は格別である。それ以外は、彼の感性との間に不思議な距離感を感じながら、流れ落ちてくる色彩を味わうのである。これが今現在の自分にできる唯一の「春と修羅」へのアプローチだ。
もうけっしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云ったとこで
またさびしくなるのはきまっている
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさとかなしさとを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリックス ラリックス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
かっきりみちは東へまがる
この部分は銀河鉄道の夜に通じる部分があるように思えた。
Sony Rolly発売
09/10/2007 (Mon)
どんな製品か期待していたら……え? これを売るつもりなのだろうか? たぶん売れないと思う。売れない理由はいくつか思いつくが、改めて書く必要はないだろう。直感的に「いらない」と思ってしまう製品だからだ。
でもちょっとだけ良いなと思う点についても書きたい。この機種発売で思ったのがSonyはappleと違って「ハードウェア」でもエンターテイメントしたい企業なのかもしれないということだ。機械的電機的技術によって楽しませようという気概を持った企業だと思った。確かに音楽プレイヤーがクルクル回ったり、アチコチに移動したりするのは楽しさの観点から言えば微妙なのかもしれない。けれど、映像にはないリアルの質的な楽しさ(ハードウェアが供給する)を追い求める姿勢は素直に評価したい。ipodは商品コンセプトが多くの人に認められたが、認められた部分というのはやはりコンセプトであって純粋なハードウェア的なものではない。appleがハードウェア的に気を使っている点は、見た目だとか
製品の質感といったもので(確かにそれは十分素晴らしい)、ハードウェアそのものが提供するエンターテイメントというものは見当たらない。
ソフト、コンセプトといったものは確かに重要である。それらを見極めることで、既存のハードウェアの組み合わせによる全く新しい製品といったものが登場する。しかしRollyの発売で垣間見れたのは、ソフト、コンセプトという真っ当な新製品へのプロセスではなく、他社にマネできないハードウェアと制御技術とソフトの組み合わせによる新製品へのプロセスだった。アイボや二足歩行ロボットといったハードウェアを作ってきたSonyだからこそ可能なエンターテイメントへの挑戦だったと思うのだ。
蛇足かもしれないが、日本企業の挑戦といった全体的なものを暗示していると思われる。自動車、素材、精密機器などハードウェア技術に利している企業がどう戦っていくのか。それを占う形になるかもしれない。ただ今回ばかりはSonyのプライドの暴走だろうと思う。
Sonyはappleとは違うエンターテイメント企業としてのアイデンティティを模索している段階なのだと思う。ipodでSonyはかなり悔しい思いをしただろう。音楽に確信をもたらしてきた自負があったが、ipodでおかげでウォークマンのブランド力が急激に低下し、ある種安住してきた今の状況を再確認したと思う。
はたしてSonyとは何なのだろうか?
この疑問にSony自身が迷っている。プレイステーションに並々ならぬ意地を見せるのは、Sonyのアイデンティティがかかっているからである。音楽プレイヤー分野での失地回復を目指すのはアイデンティティを回復させるためである。私はそんなSonyを応援したい。
でもちょっとだけ良いなと思う点についても書きたい。この機種発売で思ったのがSonyはappleと違って「ハードウェア」でもエンターテイメントしたい企業なのかもしれないということだ。機械的電機的技術によって楽しませようという気概を持った企業だと思った。確かに音楽プレイヤーがクルクル回ったり、アチコチに移動したりするのは楽しさの観点から言えば微妙なのかもしれない。けれど、映像にはないリアルの質的な楽しさ(ハードウェアが供給する)を追い求める姿勢は素直に評価したい。ipodは商品コンセプトが多くの人に認められたが、認められた部分というのはやはりコンセプトであって純粋なハードウェア的なものではない。appleがハードウェア的に気を使っている点は、見た目だとか
製品の質感といったもので(確かにそれは十分素晴らしい)、ハードウェアそのものが提供するエンターテイメントというものは見当たらない。
ソフト、コンセプトといったものは確かに重要である。それらを見極めることで、既存のハードウェアの組み合わせによる全く新しい製品といったものが登場する。しかしRollyの発売で垣間見れたのは、ソフト、コンセプトという真っ当な新製品へのプロセスではなく、他社にマネできないハードウェアと制御技術とソフトの組み合わせによる新製品へのプロセスだった。アイボや二足歩行ロボットといったハードウェアを作ってきたSonyだからこそ可能なエンターテイメントへの挑戦だったと思うのだ。
蛇足かもしれないが、日本企業の挑戦といった全体的なものを暗示していると思われる。自動車、素材、精密機器などハードウェア技術に利している企業がどう戦っていくのか。それを占う形になるかもしれない。ただ今回ばかりはSonyのプライドの暴走だろうと思う。
Sonyはappleとは違うエンターテイメント企業としてのアイデンティティを模索している段階なのだと思う。ipodでSonyはかなり悔しい思いをしただろう。音楽に確信をもたらしてきた自負があったが、ipodでおかげでウォークマンのブランド力が急激に低下し、ある種安住してきた今の状況を再確認したと思う。
はたしてSonyとは何なのだろうか?
この疑問にSony自身が迷っている。プレイステーションに並々ならぬ意地を見せるのは、Sonyのアイデンティティがかかっているからである。音楽プレイヤー分野での失地回復を目指すのはアイデンティティを回復させるためである。私はそんなSonyを応援したい。
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