モチベーションの源泉

 ある人に認められたいと思い、たくさん本を読んだり、勉強していこうと突然決心してしまった。こんなにモチベーションが上がったのは久しぶりである。人の影響ってやはりすごい。就職してもこのような環境や人があったらとても幸せなんだろうなあ。

 結局、自分のためだけに何かをやるのって、限られた人たちにしかできないのかもしれない。誰かのために、努力し、認めてもらう。この認めてもらえる瞬間に、その人から何かを受け取っているのだ。その何かがほしいからみんな努力するんだと思う。今の自分は、この何かが非常に欠乏している。

 だから、ネットワークごしに情報をせっせと集めるよりも、その誰かに認めてもらうために、または出会いに外へ出かけていくのは実に有意義なことだと思う(ネットを使うな、ということではなく、ね。手段として使うのは全くあり)。尊敬したくなるような人物を求めて。そしてその人物から認めてもらうために。
04:52 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

後になって思い返すと 系

 「後になって思い返すと、ああ素敵な出来事だったなあ」
 「もっともっと頑張れたけど、でも今だからこそ出来る後悔なんだよ♪」

 こんな感じのにすごい違和感。
 あうあうあーーって感じ。
 自分の事過剰評価しすぎ??
23:53 | ひとりごと | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

うつ病について02

 この年になってくると、周囲に精神的に病んでいる人がちょくちょく出てくる。うつ病になどなると1〜2年ほどの療養が必要らしく、身体の疾患に比べても勝らずとも劣らないほど、患者に対して不利益になる。また精神的疾患患者を支える人もきっと大変な苦労をするはずである。この意味で、精神的疾患がもたらす不利益は、万人が気を病む問題、つまり結核などの伝染病と同じくらい共同体内でなんとかするべき問題とも言える。自己管理がなっていないから、とかそういう風に責任を抱え込ませる構図にするんじゃなくて。

 共同体内で“誰もが成りえる精神病”に対して対策を講じようと考えた場合、“教育”によって耐性を持たせるという方法が良いと思う。つまり、教育によって精神的に強い子供になってもらって、社会の荒波にもちょっとやそっとじゃくじけない人間になってもらうのだ。むしろ、昔は暗黙のうちにこれを共同体内でやっていたのではないか、と思う。家族や親戚に「男なんだからら泣くんじゃない」「やったらやりかえしてこい」または、怖い親戚のおじさんに囲まれて、色んなことを言われて泣かされたりする。これら一つ一つは合理的な意味で、精神を鍛えるためには適切ではなかったかもしれないが、きっとどこかで活きてくる経験になっていたのではないか。地域によってはもっと面白い工夫のあるところもあったかもしれない。
 
 昔は良かった論になりそうだが、精神病患者が珍しくなくなった昨今と昔を比較するのは、そう的外れでもあるまい。自分には、むしろ“子供の精神を鍛える”ということについて、ジャネレーション間に深い溝があるように思えるのだ。例えば、
 
 昔「男だったら泣くんじゃねえ。泣いてると池に放り投げるぞ」
 今「つらかったら泣いてもいいんだよ。でも優しい男の子になりなさい」
 
 という感じだ。自分がずいぶん違うと思うのは、言葉から伝わってくる“子供への理解の差”ということではない。子供の精神の“鍛えるポイント”が両者の間で違うということを言いたい。
 
 具体的に言うと、昔は精神をもっと身体寄り(ハードウェア寄り)に考え、こんなことに動じているようではダメだ、とか、そんなことでオロオロしてどうする! 男だろ!、という具合に、ある精神的な刺激に対して“動じない”ことを求められた。そして動じないことが、すなわち精神的に強いことと考える節があった。いじめられたくらいの刺激では涙を流してはいけない。そして精神的な刺激そのものが悪いだとかそういう議論にはならない。例えば、子供Aが子供Bにいじめられて帰ってきた場合、親は子供Bの親に抗議しにいくんではなく、子供Aに対して、「やりかえしてこい」とか「めそめそ泣くな」というような対応をする。
 
 
 今はどうかというと、精神を“心”として捉えて性善説を採用しながら扱っている。精神は清く正しい心であって、適切な理屈を入力すれば、適切な理屈・結果が出力されると考えている。この表現を書くとき、思い浮かぶのはNHK教育で放送されていたアメリカのホームドラマだ。子供が何か問題をおこして帰ってきたとき、父親がそれっぽい理屈を言って子供を諭すのだ。そうして子供は「わかったよ、パパ」と天使の笑顔で応え、家族の絆はさらに深まり、ハッピーエンド。とても離婚率50%の国の作品とは思えない。話がそれたが、このホームドラマが示すように、精神を鍛えるということは“正しい理屈を教え込む作業”と置き換わっていると思うのだ。親も教師もテレビの中のミュージシャンも、全てが正しい理屈を発信している。それが届くと信じて。鍛えられた精神というのは、正しい理屈によって裏付けられた“正しい反応”を出力するもの。“動じないこと”を求められた昔とは逆なのだ。感性豊かに機敏に反応することが求められる。だから「あいつ空気が読めない」という言葉が全人格否定となる。だから心の教育が教育現場でのイデオロギー問題になる。
 
 
 ここまでの仮説を式でまとめると
 昔:動じないこと=精神的に強い
 今:正しい理屈によって正しく反応できること=良い精神(強いとか書けない)
 
 今でも“精神的に強い”という表現は動じないことを意味するので、右辺が同じではない。けれどずいぶん混同して扱われている。けれど今も昔も、良い精神を作ろうとして、精神を鍛えていることに違いはない。あくまで鍛えているポイントが違うのである(美意識の違いといえるかもしれない)。誤解のないように付け加えておくと、動じないことと、正しい理屈によって正しく反応できることは、どちらも必要である。ハイブリットな鍛え方が望ましいと思う。
 
 それでもって結論だが、うつ病対策には“動じないこと”が(も)必要なので、共同体はもう一度、昔の精神の鍛え方を参考にすべきだろうということだ。いつも正しい理屈で動いていたら疲弊するし、ある個人の正しい理屈が別の個人の正しい理屈と適合するとは限らない(日本には絶対的な宗教がない)。むしろ他人の目なんか気にしないで生きていける方が圧倒的に楽なのだ。動じないこととは、楽をしていることなのだ(要訓練)。けれど、ここに書いた言葉だけで誰かが楽になるとは思えない。動じないことにはそれなりの経験は訓練が必要だし、幼少期の音楽教育みたいに、小さいころの経験が圧倒的に大きいだろうと思う。今さら、動じないことの理屈をこねられたところで正直、動じなくなれることは難しい。だから今の20〜30代前後には犠牲になってもらって、次の世代の教育に生かされればと思う。
 
 
 
 
 
 
 
14:03 | 主張 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

映画アメリを観た

 評判が良さげなので、アメリをレンタルしてきた。といっても借りたのは三ヶ月前くらい? ずっとDVDホルダーの中で寝てもらっていて、今日時間があったので観ることにしたのだ。

 好きだなあ。こういうの。
 アメリ、なかなか良いです。
 フランス映画らしく、映像がコントラストの強い絵画のようで印象的。
 どの色もきれいに映えていて、音楽も相まって、まるでおもちゃの世界に入っているような感じ。

 作中の出来事もどこか救いのある、そんな出来事に満ちている。
 アメリがちょっと頑張ると、その周囲の人生がちょっと動かされていく。
 それによって、アメリもまた動かされていく。
 これに味をしめたアメリはまたもうちょっと頑張る。
 
 人生は複雑怪奇で難しいものだ、と考えている人に
 もっと大雑把に見れば、といってくれるような作品かもしれない。
 自分はどの部分の歯車になっているかなんてよくわからないし
 歯車が動いたところで、どの部分に作用しているかなんて完全にはわからない。
 でも、確かなのは全体が動いていること。
 そして自分自身がそれによってまた動かされていることなんだろう。
 それでも運命を掴み取るには、ただ歯車でいるだけじゃだめなんだけど。

 とにかく観れば勇気が沸いてくるのは間違いないかも。
 ごちゃごちゃになった頭に効く薬。

 

 作中、とても愉快な気分にさせてくれた一言
 「アメリ、あなた奇跡を信じる!?」
 「今日は無理です」
 

 今日は、ね(笑)
 
 
01:15 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

渇!

 最近、頑張らなくなってきている。だめだってわかっているが、無理のない時間の使い方をしてしまっている感じ。若くない感じ。こんなのもちろんダメ。あとで大学生活を思い起こしたときに絶対に後悔するに違いない。こんなクズのような生活、早く絞り上げてしまわないと。

 ふと思い出して、中学校のときの友人のホームページを見た。この友人は遠いところでミュージシャンとして活躍している。プロを目指して本格的にやっているらしい。らしい、というのは、本人から直接聞いたわけではないからだ。別の友人を介して、ホームページのアドレスを知り、それで見ている。見ていることも、ミュージシャンの友人には言っていない。軽々しく「見てるよ! 頑張ってね!」なんて、最高にかっこ悪くないだろうか!? というおかしなプライドでもって。単なる傍観者になっているなんて嫌だし、プレイヤーである彼に、プレイヤーである自分の姿を見てもらいたい。そんな漠然とした気分。んなこと言っても、自分は単なる一学生の身分に過ぎないのだが。

 彼と再会したら、どんな会話になるのだろう? とHPを見て考えてみた。何年も会っていないので、きっと近況報告から始まるだろう。それで、これからどうなるか、とかそんな風に当たり障りのない無難なトークが続いて、いつの間にか彼は生き方とか、自分の歩んできた道を基にした哲学を語り始めるだろう。そのとき、一体自分はどんな哲学で応えればよいのか? ここで単なる聞き役に徹するなんて、絶対に格好悪いと思うのだ。自分は彼の哲学をどのように感じるのだろうか? コイツ、いつまでも夢見てんじゃねーよ。なんて思ったりするのだろうか? 正直ちょっと思ったりするかもしれない。じゃあ、お前の人生は面白いのか? と聞かれたら? 返答に自信がない。

 この返答に自信を持てるような生き方を。
 活を入れろ! 自分!
22:28 | 日常 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ニンテンドーDS買いました

 前回の記事に拍手を2つも打ってくれた方がいて、とても嬉しい。ブログを書いている身としては、モチベーションの維持にもなる。拍手の方本当にありがとう。

 さて、最近ニンテンドーDSを買った。
 カラーはクリムゾンブラック。ブラックにしようとしたけど、在庫切れですって店員が…
 16800円。
 指紋が気になるかなあと思ったけど、この色だと気にならない。
 画面の明るさはちょっと明るすぎるかも。明るさって調整できないの??
 ちなみにソフトはドラクエ4。

 ドラクエをやってみて思ったのだが、このクオリティで十分だなあと。PS3がやっているようなリアル・高画質な映像がなくても楽しいものは楽しい。それになんといっても手軽なのだ。今、一人暮らしをしているのだが、据え置き型のテレビゲームを置くとなると、場所をとってしまって、とても邪魔なのだ。コードが絡まったり、人が遊びに来るときなど片付けるのに一苦労。あの小さいゲームキューブでさえ、邪魔だとおもった。

 昔ファミコンで遊んでいた世代が、今社会人として活躍している。彼らはゲームの楽しさを知っているし、ゲームがどれだけ時間を消費するのかも知っている。その彼らにゲームを買わせるとしたら、色んな意味で手軽な“携帯型”になると思う。

00:46 | 日常 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑