うつ病について02

 この年になってくると、周囲に精神的に病んでいる人がちょくちょく出てくる。うつ病になどなると1〜2年ほどの療養が必要らしく、身体の疾患に比べても勝らずとも劣らないほど、患者に対して不利益になる。また精神的疾患患者を支える人もきっと大変な苦労をするはずである。この意味で、精神的疾患がもたらす不利益は、万人が気を病む問題、つまり結核などの伝染病と同じくらい共同体内でなんとかするべき問題とも言える。自己管理がなっていないから、とかそういう風に責任を抱え込ませる構図にするんじゃなくて。

 共同体内で“誰もが成りえる精神病”に対して対策を講じようと考えた場合、“教育”によって耐性を持たせるという方法が良いと思う。つまり、教育によって精神的に強い子供になってもらって、社会の荒波にもちょっとやそっとじゃくじけない人間になってもらうのだ。むしろ、昔は暗黙のうちにこれを共同体内でやっていたのではないか、と思う。家族や親戚に「男なんだからら泣くんじゃない」「やったらやりかえしてこい」または、怖い親戚のおじさんに囲まれて、色んなことを言われて泣かされたりする。これら一つ一つは合理的な意味で、精神を鍛えるためには適切ではなかったかもしれないが、きっとどこかで活きてくる経験になっていたのではないか。地域によってはもっと面白い工夫のあるところもあったかもしれない。
 
 昔は良かった論になりそうだが、精神病患者が珍しくなくなった昨今と昔を比較するのは、そう的外れでもあるまい。自分には、むしろ“子供の精神を鍛える”ということについて、ジャネレーション間に深い溝があるように思えるのだ。例えば、
 
 昔「男だったら泣くんじゃねえ。泣いてると池に放り投げるぞ」
 今「つらかったら泣いてもいいんだよ。でも優しい男の子になりなさい」
 
 という感じだ。自分がずいぶん違うと思うのは、言葉から伝わってくる“子供への理解の差”ということではない。子供の精神の“鍛えるポイント”が両者の間で違うということを言いたい。
 
 具体的に言うと、昔は精神をもっと身体寄り(ハードウェア寄り)に考え、こんなことに動じているようではダメだ、とか、そんなことでオロオロしてどうする! 男だろ!、という具合に、ある精神的な刺激に対して“動じない”ことを求められた。そして動じないことが、すなわち精神的に強いことと考える節があった。いじめられたくらいの刺激では涙を流してはいけない。そして精神的な刺激そのものが悪いだとかそういう議論にはならない。例えば、子供Aが子供Bにいじめられて帰ってきた場合、親は子供Bの親に抗議しにいくんではなく、子供Aに対して、「やりかえしてこい」とか「めそめそ泣くな」というような対応をする。
 
 
 今はどうかというと、精神を“心”として捉えて性善説を採用しながら扱っている。精神は清く正しい心であって、適切な理屈を入力すれば、適切な理屈・結果が出力されると考えている。この表現を書くとき、思い浮かぶのはNHK教育で放送されていたアメリカのホームドラマだ。子供が何か問題をおこして帰ってきたとき、父親がそれっぽい理屈を言って子供を諭すのだ。そうして子供は「わかったよ、パパ」と天使の笑顔で応え、家族の絆はさらに深まり、ハッピーエンド。とても離婚率50%の国の作品とは思えない。話がそれたが、このホームドラマが示すように、精神を鍛えるということは“正しい理屈を教え込む作業”と置き換わっていると思うのだ。親も教師もテレビの中のミュージシャンも、全てが正しい理屈を発信している。それが届くと信じて。鍛えられた精神というのは、正しい理屈によって裏付けられた“正しい反応”を出力するもの。“動じないこと”を求められた昔とは逆なのだ。感性豊かに機敏に反応することが求められる。だから「あいつ空気が読めない」という言葉が全人格否定となる。だから心の教育が教育現場でのイデオロギー問題になる。
 
 
 ここまでの仮説を式でまとめると
 昔:動じないこと=精神的に強い
 今:正しい理屈によって正しく反応できること=良い精神(強いとか書けない)
 
 今でも“精神的に強い”という表現は動じないことを意味するので、右辺が同じではない。けれどずいぶん混同して扱われている。けれど今も昔も、良い精神を作ろうとして、精神を鍛えていることに違いはない。あくまで鍛えているポイントが違うのである(美意識の違いといえるかもしれない)。誤解のないように付け加えておくと、動じないことと、正しい理屈によって正しく反応できることは、どちらも必要である。ハイブリットな鍛え方が望ましいと思う。
 
 それでもって結論だが、うつ病対策には“動じないこと”が(も)必要なので、共同体はもう一度、昔の精神の鍛え方を参考にすべきだろうということだ。いつも正しい理屈で動いていたら疲弊するし、ある個人の正しい理屈が別の個人の正しい理屈と適合するとは限らない(日本には絶対的な宗教がない)。むしろ他人の目なんか気にしないで生きていける方が圧倒的に楽なのだ。動じないこととは、楽をしていることなのだ(要訓練)。けれど、ここに書いた言葉だけで誰かが楽になるとは思えない。動じないことにはそれなりの経験は訓練が必要だし、幼少期の音楽教育みたいに、小さいころの経験が圧倒的に大きいだろうと思う。今さら、動じないことの理屈をこねられたところで正直、動じなくなれることは難しい。だから今の20〜30代前後には犠牲になってもらって、次の世代の教育に生かされればと思う。
 
 
 
 
 
 
 
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