豊かな空白

 田舎を懐かしむ気持ちは、自分の中のどこから来ているんだろうか? と東北の小さな村出身の自分が考えてみる。理由の一つを都会と田舎という対比の面からモゾモゾと考えてみたい。

 出身の村は本当に何もなかった。最寄のコンビニまで車で20分もかかる。本屋なんで40分だ。車でその時間なので、自転車やバスしかなかった自分はほとんど家の周囲で時間を過ごしていた。そのころはネットなんて普及していなかったので高校生までパソコンなど持っていなかった。親戚からもらった大量のコピー紙に落書きしたり、空想したり、山道をぼんやり歩いて景色を眺めたりしながら過ごしていた。

 大学進学のため、上京すると自分を取り巻く環境は一変した。単純に言うと、

 ・関わる人間が大幅に増えた
 ・入ってくる情報が大幅に増えた
 ・ネットを導入した

 とこんな具合だ。最初、これは本当に「豊か」だと思った。バスの時間に焦りながら立ち読みしていた高校時代とは全く違う。どこからでも情報にアクセスできるのだ。何にもしていなかった時間が、これら情報と接する・実践する時間へとシフトしていった。

 ちょっと話がそれる。
 先日、旅行の日程を立てていて思った。あれもしたい、これもしたいでスケジュールを決めていったのだが、盛り上がる友人たちを横目に何か似ている、と思った。詰まっていることが良いのだろうか? この場合の良いってのは言葉にすると難しいが抽象的な意味に捉えてほしい。よくある言葉で表現するなら「あれもこれもと表面的に観光して、一体何が残るんだい」ってことに近い気がするが、まだ違う。観光日程よりも、あれもこれもと予定を考える友人たちの気質に何かひっかかるものがあった、というのがもっと近い。

 ここまで書いていて、結局は根が内向的な人間の性質によるんだなと思った。要するに時間的なまたは物理的な空白をどこかに作りたい、と考えているのだ。一続きの、旅行でも何でもの中で。その空白のうちに新しい情報と自分が持っている既存の感覚と絡めあわせたい。あ、コレコレ。この表現でしっくりくる。

 話は冒頭に戻り、田舎の懐かしむ気持ちはなぜ生まれるか、きっと上述の空白がそこにあるからだと身体が気づいているから、というのが理由の一つになるかもしれない。都会ではあらゆる過食の可能性が転がりすぎていて、身体がもたれてしまう。胃腸が悪いからと、身体に良いものを探しまわりそれを食べ続ける感覚に近い。空白が身体に良いという概念が持ちにくい構造なのだ。皮膚が悪い人が皮膚を清潔にしようとして石鹸を使い続ける。身体を洗い続ける。しかし結果として皮膚を守っていたものまで洗い流してしまい、皮膚を傷めることになる。この場合、身体を無理に洗わないほうが良いのに。空白を許さない概念が身体感覚を曇らせ、そういう原始的な信号に気が付かない総体になってしまう。身体と精神を分解するのは好きではないが、精神の原始的な信号を捉えてみたら、空白をほしがっているかもしれない(空白をほしがるってのは不思議な表現だ)。
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