祖母の死 01
06/16/2008 (Mon)
2008年6月7日、ばあちゃんが亡くなった。
享年73歳、首吊り自殺であった。
これについては考えるべきことが山ほどあった。いろいろ後悔したし、なんでこうなってしまったのかを考えたり、そもそもいつかこういうことが起きそうだなと思っていた節もあった。それでも最終的な結論の一つとして、今胸に持つべきものは、ばあちゃんが自殺に際し、痛みや苦しみがあったが、それが少しでもやわらぐように冥福を祈ろう、という心持ちであった。ばあちゃんの自殺が、家族にいろいろな影響を与えるだろうが、それを考えるのよりも先にばあちゃんへの祈りを優先させるべきと思ったのだ。感謝の気持ちとともに。
6月7日、目白のコンビニにいた時、父から電話があった。「ばあちゃんが首をつった(口を切った、と最初は聞こえた)」。身体が一瞬ぞわっとした。そして後悔した。ばあちゃんが元気がないのは電話やGWに実家に帰ったときに知っていたから、できる限り電話をしようと思っていたのに数回しかしなかったことを。毎日自分が電話をしていれば、このようなことにはならなかったのかもしれない、そう後悔した。
すぐに実家に帰ることにした。携帯でもっとも速いルートを検索する。そうしているうちに弟から電話がかかってきた。電話口で弟も泣いていた。一緒に帰る算段をつける。銀行からお金を下ろして目白駅に向かう途中、自分はずいぶん泣いていたと思う。
いつも残酷な空想をしていた。母や祖母が亡くなってしまう空想を。この現実が自分にとって最高に恐ろしい事であったため、頭が前もってそれの予行練習を欲していたのだろうか? とにかく自分は実家に帰ったときの風呂の中でだったり、一人暮らしの部屋の布団の上だったり、いろんな場所で大事な人の死を空想してきた。そして6月7日はまさに最悪の現実が起きてしまった日だった。
大宮駅で弟と合流する。頭が金髪になっていた。仕事上、そうなってしまったらしい。「こんな頭で大丈夫かな」と心配していた。合流後すぐの新幹線で秋田へ。こまちに乗って大曲から横手駅へ。新幹線に乗って、弟といろいろ会話をした。「行きたくない」「病室に入りたくない」「なんでこうなったのか」と単発の会話。その他にも仕事の会話など。弟は2時間くらい寝ていた。自分はあまり寝れなかった。大曲駅から横手駅へ。その間も二人してぐすぐす泣いていた。横手駅改札前にひろみさんが車で待ってくれていた。「いい顔して横たわっている」そう言われると、また泣いてしまった。この時点でだいぶ頭が痛かった気がする。すぐに横手病院へ。足早に病室に入る。母と妹、それと祖母の兄弟、祖父の兄弟が数名いた。祖母のもとへ。まるでぐっすり寝ているような顔だった。しかしもう脳死しているということで、崩れるように泣いてしまった。「ばあちゃん!」と何度も呼びかけても呼びかけても、起きてきそうに平穏に寝ているくせに、まったく反応がない。心臓の脈を表す電子音。血圧や脈拍は俺ら兄弟が来るちょっと前から安定したらしい。母は「お前たちを待っていたんだよ」と言ってくれた。これがもし本当だとしたら、ばあちゃんらしいというかなんというか救われる気がする。いつまでもいつまでも俺ら孫の心配ばかりしていたばあちゃんらしいのだ。脳死しているというが、手足のマッサージをする。少しでも脳に刺激を与える。そしたら呼びかけがちょっとでも届くかもしれない。もちろん脳死は脳死なのである程度の覚悟もしている。俺たち兄弟が泣くところを見て、母も妹も泣いている。その様子は実にかわいそうだった。22時過ぎに母の姉が到着。彼女の声を上げて泣いていた。
20時半ごろ、心臓が止まった。脈が安定しなくなり、強心剤?を打ってもらって一時間くらい後のことだった。それから主治医が来たり、葬式屋が来たり、警察が来たりで慌しかった。父の車に乗って実家に帰る。ばあちゃんは仏間に寝かされる。いくぶん冷たくなっていた。身体の上にはドライアイスがのせられてある。それを布団で覆っているので、まるで寝ているようにしか見えない。ばあちゃんの表情もそう見えることに拍車をかけている。母や祖母の兄弟、親戚が同じ口を揃えて言うように、祖母の表情は大変穏やかだった。首吊りの場合、死後の状態が大変凄惨なものになるらしい。しかし祖母の場合は祖父に早く発見された(5分後くらいか)ため、そうではなかったらしい。まるで立っているようにしか見えなかった(吊っているようには見えない)と言っていたらしい。それにしても表情が穏やかだ。
それから次の日。さっそく親戚が集まって今後の段取りを定め、10日に葬式を行うことが決まった。8日が通夜、9日に納棺、火葬、10日に葬式。母はいろいろな事で親戚の女性たちと一緒に行動していた。料理を作ったり、連絡の電話したり
、そういった対応で手がいっぱいであった。自分はその間に母の分まで祖母の顔を見ていようと思った。何度か床の横に座り、祖母の穏やかな顔を見つめる。ずっと見ていても飽きない。自分はこのばあちゃんにずっと育てられてきたんだ、という実感しかわかない。死んでいるなどとは信じられない。朝起きると一階で誰かの話し声が聞こえる。それが祖母のもののような気がする。18年間ずっとそういう繰り返しだったのだ。一階では母と祖母が二人で朝食の準備をしている。味噌汁の具を決めたり、料理を作ったり。時に二人で言い合っていたり。どうしてその日常がずっと続かなかったんだろう? あれで十分すぎるほど幸せだったのに。どうしてずっとあの毎日じゃなかったんだろう? そう思いながらばあちゃんの顔を撫でた。心の底から愛しいと思った。
7日〜10日までの間、ずっとじいちゃんが元気がなかった。もともとそんなにはしゃぐような人ではないが、なんだか食事の時も孤独な感じだった。今回の事もあるので、積極的に話しかけてみる。そうしたらポツリと「あれ(祖母)はお前の事ばかりいつも言っていた」。たくさんの記憶がフラッシュバックする。冬の学校帰り、濡れた靴をいつもストーブの横の置いてくれたこと、みそをつけたおにぎりを作ってくれたこと、煮付けがおいしいと言うと喜んで作ってくれたこと、いつも年金からお小遣いをくれたこと(最後にGWに会ったときは、今回は医者にかかっているからいつもより少なくてごめんな、と言っていた…)。
享年73歳、首吊り自殺であった。
これについては考えるべきことが山ほどあった。いろいろ後悔したし、なんでこうなってしまったのかを考えたり、そもそもいつかこういうことが起きそうだなと思っていた節もあった。それでも最終的な結論の一つとして、今胸に持つべきものは、ばあちゃんが自殺に際し、痛みや苦しみがあったが、それが少しでもやわらぐように冥福を祈ろう、という心持ちであった。ばあちゃんの自殺が、家族にいろいろな影響を与えるだろうが、それを考えるのよりも先にばあちゃんへの祈りを優先させるべきと思ったのだ。感謝の気持ちとともに。
6月7日、目白のコンビニにいた時、父から電話があった。「ばあちゃんが首をつった(口を切った、と最初は聞こえた)」。身体が一瞬ぞわっとした。そして後悔した。ばあちゃんが元気がないのは電話やGWに実家に帰ったときに知っていたから、できる限り電話をしようと思っていたのに数回しかしなかったことを。毎日自分が電話をしていれば、このようなことにはならなかったのかもしれない、そう後悔した。
すぐに実家に帰ることにした。携帯でもっとも速いルートを検索する。そうしているうちに弟から電話がかかってきた。電話口で弟も泣いていた。一緒に帰る算段をつける。銀行からお金を下ろして目白駅に向かう途中、自分はずいぶん泣いていたと思う。
いつも残酷な空想をしていた。母や祖母が亡くなってしまう空想を。この現実が自分にとって最高に恐ろしい事であったため、頭が前もってそれの予行練習を欲していたのだろうか? とにかく自分は実家に帰ったときの風呂の中でだったり、一人暮らしの部屋の布団の上だったり、いろんな場所で大事な人の死を空想してきた。そして6月7日はまさに最悪の現実が起きてしまった日だった。
大宮駅で弟と合流する。頭が金髪になっていた。仕事上、そうなってしまったらしい。「こんな頭で大丈夫かな」と心配していた。合流後すぐの新幹線で秋田へ。こまちに乗って大曲から横手駅へ。新幹線に乗って、弟といろいろ会話をした。「行きたくない」「病室に入りたくない」「なんでこうなったのか」と単発の会話。その他にも仕事の会話など。弟は2時間くらい寝ていた。自分はあまり寝れなかった。大曲駅から横手駅へ。その間も二人してぐすぐす泣いていた。横手駅改札前にひろみさんが車で待ってくれていた。「いい顔して横たわっている」そう言われると、また泣いてしまった。この時点でだいぶ頭が痛かった気がする。すぐに横手病院へ。足早に病室に入る。母と妹、それと祖母の兄弟、祖父の兄弟が数名いた。祖母のもとへ。まるでぐっすり寝ているような顔だった。しかしもう脳死しているということで、崩れるように泣いてしまった。「ばあちゃん!」と何度も呼びかけても呼びかけても、起きてきそうに平穏に寝ているくせに、まったく反応がない。心臓の脈を表す電子音。血圧や脈拍は俺ら兄弟が来るちょっと前から安定したらしい。母は「お前たちを待っていたんだよ」と言ってくれた。これがもし本当だとしたら、ばあちゃんらしいというかなんというか救われる気がする。いつまでもいつまでも俺ら孫の心配ばかりしていたばあちゃんらしいのだ。脳死しているというが、手足のマッサージをする。少しでも脳に刺激を与える。そしたら呼びかけがちょっとでも届くかもしれない。もちろん脳死は脳死なのである程度の覚悟もしている。俺たち兄弟が泣くところを見て、母も妹も泣いている。その様子は実にかわいそうだった。22時過ぎに母の姉が到着。彼女の声を上げて泣いていた。
20時半ごろ、心臓が止まった。脈が安定しなくなり、強心剤?を打ってもらって一時間くらい後のことだった。それから主治医が来たり、葬式屋が来たり、警察が来たりで慌しかった。父の車に乗って実家に帰る。ばあちゃんは仏間に寝かされる。いくぶん冷たくなっていた。身体の上にはドライアイスがのせられてある。それを布団で覆っているので、まるで寝ているようにしか見えない。ばあちゃんの表情もそう見えることに拍車をかけている。母や祖母の兄弟、親戚が同じ口を揃えて言うように、祖母の表情は大変穏やかだった。首吊りの場合、死後の状態が大変凄惨なものになるらしい。しかし祖母の場合は祖父に早く発見された(5分後くらいか)ため、そうではなかったらしい。まるで立っているようにしか見えなかった(吊っているようには見えない)と言っていたらしい。それにしても表情が穏やかだ。
それから次の日。さっそく親戚が集まって今後の段取りを定め、10日に葬式を行うことが決まった。8日が通夜、9日に納棺、火葬、10日に葬式。母はいろいろな事で親戚の女性たちと一緒に行動していた。料理を作ったり、連絡の電話したり
、そういった対応で手がいっぱいであった。自分はその間に母の分まで祖母の顔を見ていようと思った。何度か床の横に座り、祖母の穏やかな顔を見つめる。ずっと見ていても飽きない。自分はこのばあちゃんにずっと育てられてきたんだ、という実感しかわかない。死んでいるなどとは信じられない。朝起きると一階で誰かの話し声が聞こえる。それが祖母のもののような気がする。18年間ずっとそういう繰り返しだったのだ。一階では母と祖母が二人で朝食の準備をしている。味噌汁の具を決めたり、料理を作ったり。時に二人で言い合っていたり。どうしてその日常がずっと続かなかったんだろう? あれで十分すぎるほど幸せだったのに。どうしてずっとあの毎日じゃなかったんだろう? そう思いながらばあちゃんの顔を撫でた。心の底から愛しいと思った。
7日〜10日までの間、ずっとじいちゃんが元気がなかった。もともとそんなにはしゃぐような人ではないが、なんだか食事の時も孤独な感じだった。今回の事もあるので、積極的に話しかけてみる。そうしたらポツリと「あれ(祖母)はお前の事ばかりいつも言っていた」。たくさんの記憶がフラッシュバックする。冬の学校帰り、濡れた靴をいつもストーブの横の置いてくれたこと、みそをつけたおにぎりを作ってくれたこと、煮付けがおいしいと言うと喜んで作ってくれたこと、いつも年金からお小遣いをくれたこと(最後にGWに会ったときは、今回は医者にかかっているからいつもより少なくてごめんな、と言っていた…)。
| ホーム |


comments
post a comment