坂東眞砂子による子猫殺しとその感想への感想
08/27/2006 (Sun)
※本文にはグロテスクな表記が含まれています。
猫を愛してやまない人には読むことをお勧めしません。
※いわゆる「結論」を出しているわけではありません。
今ネットで作家「坂東眞砂子」の子猫殺しについて意見が交わされている。
その多くは「子猫殺し」に批判的であり、ペットとして飼うのならば避妊手術すべきだ、という意見だ。
さて私としては非常に複雑な心境である。
なぜなら私は、いわゆる子猫殺しを(と親猫への避妊手術を両方)見てきたからだ。
小学生だった自分のわがままで雑種の雌猫を飼うことになった。当然盛りが付き、交尾し出産する。この猫は家のコタツの中でよく出産していた。血で汚れるので、家族は猫をすぐに農業用具を収容するための小屋に移動させ、そこで生ませていたものだ。しかし3匹なり4匹なり生まれると、すぐに子猫たちは姿を消していた。初め子猫が消えた理由について、家族からは「悪い雄猫が来て食ってしまった」と説明された。
だが、真実はそうではなかった。
実際は曾祖母が子猫たちを麻袋に入れて、アスファルトの地面に叩きつけ完全に殺した後に川へ捨てていたのだ。この話を聞いたとき絶句した。なんて残忍なことか…、硬い地面に叩きつけられて頭がい骨が割れ、死に至る子猫の様子を想像した。袋は血だらけになったろう。そしてぐしゃぐしゃの死骸が川へ捨てられた。
なぜそんなヒドイことをするのか尋ねた。答えはシンプルだった。
「では生まれてくる子猫をすべて面倒みれるのか? できないでしょう?」
正論。
それに当時、私には猫の避妊という知識がなかった。
当時の私の思考はそこで停止した。
そして子猫が生まれてくるたびに、曾祖母の子猫殺しを見て見ぬ振りをした。
(中には誰かにもらわれた猫もいた。
話はそれるが、地元は田舎であったためか、私の家族を含め、ある程度年のとった人は自分で生き物をさばいて食べる、そんな習慣があったように思う。ある日祖父が鶏を一匹もらってきた。私はそれを飼って卵を産ませるものだと思っていた。しかしある日庭に出ると、庭一面の血…。祖父によって鶏の首が切り落とされていたのだ。これから家族の一員になるかと思っていた鶏は、祖父の手元で血だらけになり完全に動かなくなっていた。そして夕食にそれが出た。私はそれから1年か2年間、鶏を食べられなくなった。理由は「かわいそうだから」だったと思う(今は問題なく食べられる)。
作家「坂東眞砂子」の子猫殺しのエッセイを読んだ後、この二つの記憶がよみがえって来た。あともう一つ、国語の教科書に載っていたドイツの話。クラスのマドンナが肉屋で裁かれた豚の腹に手を突っ込み体温を感じるという物語。
坂東眞砂子氏はいろいろ理屈をこねているが、私の地元の人たちと同じく、生き物との間の間隔が狭まったため、子猫殺しが可能であったのではないか? 普段死に直面しない、肉や魚を食べることはあっても生きている牛や豚をさばくことは滅多にない、私たちとは違い、タヒチに住んでいる坂東眞砂子氏は頻繁に動物の死骸を目にするという。日経のコラムを読んで、氏は生き物をそれ以上でもそれ以下でもなく、生き物として評価しているというか、そして自分もそんな生き物の一部に過ぎないことを認識しているように私には感じられた。
都市に住んでいる場合、あらゆることが分業化されている。結果しか見えない。肉はパッケージ化され、血はほとんど見えない。スーパーの作業所で魚もさばかれる。避妊手術だって、飼い主が手を猫の血で汚しているわけではない。獣医が猫の腹を割いているのだ。そういう結果しか見えていない状態では、生き物ということもなかなか見えて気はしないのかもしれない。その場合、物事を評価する基準は何だろうか? それはたぶん「かわいそうか、かわいそうでないか」という伸び縮みする主観であり、私が祖父の鶏殺しを見たときのような価値判断であろう。
そしてもう少し考えてみたい。
私たちは、パッケージ化され「かわいそう」が見えないから「かわいそうでない」と判断しているのではないか? (今は何でもパッケージ化され、入り口と出口しか見えなくなっている。これについてもいつか書きたい)
避妊も子猫殺しも、50歩100歩であり、自己満足に過ぎないと思う。
避妊するものは、そのほうが猫に負担がない、残酷でないと納得し
氏の場合は猫殺しを、ペットを飼うための贖罪として受け入れて、それで納得している。だから氏には
「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」
などど言う資格はない。この考えは傲慢であると思う。
この歪みが、つまりはペットを飼うということなのか…
愛玩として飼う場合は、考えすぎない方が精神衛生上よろしいだろう…
・それができるか、できないか
・かわいそうか、かわいそうでないか
・痛いのか、痛くないか
・自分の考えにあっているのか、あっていないのか
私たちは想像しているに過ぎない。
猫の痛み・感情は観測できない。(観測できるのは世間体くらいか
猫本位に見えて、自分本位。
痛みを観測しているのは猫自身だ。
私たちはこの事実にもっと謙虚にならなければいけないと思う。
猫を愛してやまない人には読むことをお勧めしません。
※いわゆる「結論」を出しているわけではありません。
今ネットで作家「坂東眞砂子」の子猫殺しについて意見が交わされている。
その多くは「子猫殺し」に批判的であり、ペットとして飼うのならば避妊手術すべきだ、という意見だ。
さて私としては非常に複雑な心境である。
なぜなら私は、いわゆる子猫殺しを(と親猫への避妊手術を両方)見てきたからだ。
小学生だった自分のわがままで雑種の雌猫を飼うことになった。当然盛りが付き、交尾し出産する。この猫は家のコタツの中でよく出産していた。血で汚れるので、家族は猫をすぐに農業用具を収容するための小屋に移動させ、そこで生ませていたものだ。しかし3匹なり4匹なり生まれると、すぐに子猫たちは姿を消していた。初め子猫が消えた理由について、家族からは「悪い雄猫が来て食ってしまった」と説明された。
だが、真実はそうではなかった。
実際は曾祖母が子猫たちを麻袋に入れて、アスファルトの地面に叩きつけ完全に殺した後に川へ捨てていたのだ。この話を聞いたとき絶句した。なんて残忍なことか…、硬い地面に叩きつけられて頭がい骨が割れ、死に至る子猫の様子を想像した。袋は血だらけになったろう。そしてぐしゃぐしゃの死骸が川へ捨てられた。
なぜそんなヒドイことをするのか尋ねた。答えはシンプルだった。
「では生まれてくる子猫をすべて面倒みれるのか? できないでしょう?」
正論。
それに当時、私には猫の避妊という知識がなかった。
当時の私の思考はそこで停止した。
そして子猫が生まれてくるたびに、曾祖母の子猫殺しを見て見ぬ振りをした。
(中には誰かにもらわれた猫もいた。
話はそれるが、地元は田舎であったためか、私の家族を含め、ある程度年のとった人は自分で生き物をさばいて食べる、そんな習慣があったように思う。ある日祖父が鶏を一匹もらってきた。私はそれを飼って卵を産ませるものだと思っていた。しかしある日庭に出ると、庭一面の血…。祖父によって鶏の首が切り落とされていたのだ。これから家族の一員になるかと思っていた鶏は、祖父の手元で血だらけになり完全に動かなくなっていた。そして夕食にそれが出た。私はそれから1年か2年間、鶏を食べられなくなった。理由は「かわいそうだから」だったと思う(今は問題なく食べられる)。
作家「坂東眞砂子」の子猫殺しのエッセイを読んだ後、この二つの記憶がよみがえって来た。あともう一つ、国語の教科書に載っていたドイツの話。クラスのマドンナが肉屋で裁かれた豚の腹に手を突っ込み体温を感じるという物語。
坂東眞砂子氏はいろいろ理屈をこねているが、私の地元の人たちと同じく、生き物との間の間隔が狭まったため、子猫殺しが可能であったのではないか? 普段死に直面しない、肉や魚を食べることはあっても生きている牛や豚をさばくことは滅多にない、私たちとは違い、タヒチに住んでいる坂東眞砂子氏は頻繁に動物の死骸を目にするという。日経のコラムを読んで、氏は生き物をそれ以上でもそれ以下でもなく、生き物として評価しているというか、そして自分もそんな生き物の一部に過ぎないことを認識しているように私には感じられた。
都市に住んでいる場合、あらゆることが分業化されている。結果しか見えない。肉はパッケージ化され、血はほとんど見えない。スーパーの作業所で魚もさばかれる。避妊手術だって、飼い主が手を猫の血で汚しているわけではない。獣医が猫の腹を割いているのだ。そういう結果しか見えていない状態では、生き物ということもなかなか見えて気はしないのかもしれない。その場合、物事を評価する基準は何だろうか? それはたぶん「かわいそうか、かわいそうでないか」という伸び縮みする主観であり、私が祖父の鶏殺しを見たときのような価値判断であろう。
そしてもう少し考えてみたい。
私たちは、パッケージ化され「かわいそう」が見えないから「かわいそうでない」と判断しているのではないか? (今は何でもパッケージ化され、入り口と出口しか見えなくなっている。これについてもいつか書きたい)
避妊も子猫殺しも、50歩100歩であり、自己満足に過ぎないと思う。
避妊するものは、そのほうが猫に負担がない、残酷でないと納得し
氏の場合は猫殺しを、ペットを飼うための贖罪として受け入れて、それで納得している。だから氏には
「もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである」
などど言う資格はない。この考えは傲慢であると思う。
この歪みが、つまりはペットを飼うということなのか…
愛玩として飼う場合は、考えすぎない方が精神衛生上よろしいだろう…
・それができるか、できないか
・かわいそうか、かわいそうでないか
・痛いのか、痛くないか
・自分の考えにあっているのか、あっていないのか
私たちは想像しているに過ぎない。
猫の痛み・感情は観測できない。(観測できるのは世間体くらいか
猫本位に見えて、自分本位。
痛みを観測しているのは猫自身だ。
私たちはこの事実にもっと謙虚にならなければいけないと思う。
Trackbacks
坂東眞砂子の「小猫殺し」のコラムに対して、非難、拒絶の反応を示すブログがあふれ返っている。天の邪鬼なボクは、この反応以外の数少ない反応をまとめて紹介したい。ちなみに今回は書きかけのままアップさせてもらう。この他に
2006/08/28 (Mon)
01:45 | とくべつのとびきり
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comments
なぜ里親を探す事を考えてはくれないのか。
育てられないなら、飼わなければいいのに。
>子猫を殺すのを正論だと思うのは?
正論だと思ったのは、生まれる全ての子猫の面倒を見きれない、ということにです。
>なぜ里親を探す事を考えてくれないのか
何匹かはもらわれていきました。しかし大半は殺されました。コメント主さんのような考えの下で里親を探せばもっと見つかったと思います。ただそのような「常識」が私の地元にはずっと希薄でした。その代わり猫は、保存している米や野菜などを食べるネズミを駆除するための家畜として飼われていた側面もあります。ペット100%ではないのです。もっと人間の都合側にいた存在でした。
>育てられないのなら飼わなければいい
ネズミを捕る家畜として、私のわがままを反映したペットとして猫を飼いました。子猫を育てられないのなら飼わない、という視点はありませんでした。
残忍だ、と思われるのはコメント主さんとコメント主さんの周囲の感覚は、非常に大事なものだと思います。尊重させていただきます。その一方、別の事情・風習で別の感覚を持つ環境もあった、という事実も心に留めていただければ幸いです。私はどちらがいいのか、そんな結論をだしているわけではありません。
思われるのは → 思われる
に訂正します。なぜか編集できなかったので
私は猫が大好きですが猫アレルギーのため飼う事が出来ません。一緒に暮らすのが夢です。だから今回の事はとても切なく思ってしまったのです。地域によっての事情・風習も知らないとはいえ、ちょっとえらそうにコメントしてしまいました。スミマセン。私の近所にも昔猫を飼っている家が子猫をよく捨てに行っていました。「捨てるなら生ませなければいいのに・・」と、おもっていました。突然いなくなってしまった子猫を鳴きながら一日中探し回っていた親猫が忘れられませんでした。子猫殺しの件を知ったとき、真っ先にそのことを思い出してしまいました。
冒頭に「猫を愛して・・・」とありましたが
つい読んでしまいました。でも読んでよかったです。
私もすぐ感情的にならず、冷静に考えることが出来るようになりたいです。
再びコメントありがとうございます。
子猫を育てられない以上、やはり何らかの対応が必要なのでしょうね。私は子猫殺しも、親猫への避妊手術も両方見てきました。私の感覚ではどちらも猫に対して残忍な気がします。
避妊手術から帰ってきた親猫は怯えきっていました。麻酔が体から抜けきらず、目の焦点が定まっていない虚ろな表情で。足元もふらふらで、でもどこかへ逃げようとしました。体の安静を考えて家に置いていようと思いましたが、猫は外へ出ようとするのです。かわいそうでドアを開けてやると、外のタバコ畑の方へ一目散に走っていきました。
私こそブログでえらそうなことを書いていますが、結局のところわかりません。あまり理屈をこねてもしょうがない気もするのです。だから、みぃさんのコメントに対してどんな感想を持てばよいのか、実に悩ましいのです。ただ、みぃさんのような方に猫が飼われるのなら、猫は幸せになれるのではないか、という漠然とした期待はあります。
誠実なコメントありがとうございました。いつか何らかの形で夢が叶うことを期待しております。
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